【Riverside Reading Club feat. 滝口悠生】
- 作家とは、マイクで音を拾う録音技師の仕事に似ている?
- 「この時間に何の意味が」みたいな瞬間を、ないことにしたくない
- 小説における「フロー」は内容と同じくらい重要だ
植本一子さんに薦めてもらった
Lil Mercy:自分の地元は西武線池袋線沿線で、滝口さんもそっちの方だと本を読んで感じていて、今日の東長崎も『高架線』の場所ですけど、勝手に親近感を感じてました。
滝口:あ、同じ沿線育ちなんですね。それは奇遇な。たぶんこの記事を読んでる人は「なんでこの組み合わせ?」って思うと思うんですけど、もともとは(写真家の植本)一子さんがきっかけなんですよね。
ikm:そうです。以前、一子さんと下北沢のフリーマーケットで、たまたま2人で店番するタイミングがあって、一子さんから「ikmくんって日本の小説は読まないの?」みたいな流れから、「(保阪和志さんの)『残響』が好きでした」って答えたら、滝口さんの『長い一日』と『死んでいない者』を薦めてくれました。しかもその日は、滝口さんもフリマに遊びに来てくれたんですよね。
Lil Mercy:自分も途中からフリマに合流したので、帰りに教えてもらった本を下北沢のB&Bで買おうと思ったけど見つけられなかったんだよね。
ikm:そうそう。B&Bは一般的な書店と棚の作り方が違うから結構じっくり探したけどみつけられなくて。でも「このタイミングで買うしかない」って感じだったから、新宿まで出て大型書店で買いました。
滝口:ちなみに『残響』はどんなきっかけで読んだんですか?
ikm:Phoneheadっていううちのハウスミュージック担当が保坂さんの話をよくしていて、何かのタイミングで教えてもらった『書きあぐねている人のための小説入門』を買いにブックオフに行ったら隣に『残響』もあったので一緒に買いました。それで『残響』を最初に読んだらめちゃくちゃすごくて。読み終わった後、すぐマーシーくんにあげたと思います。
Lil Mercy:俺もすぐ読んで、誰かにあげて、自分用に買い直しましたね。
ikm:『残響』は登場人物それぞれの内面の話がつながっていく、みたいな内容で、普段は目に見えないけど世界はそういうふうにもできているし、そんな世界を描くのは小説にしかできないんじゃないかと思って、めちゃくちゃ感動して。その後に『書きあぐねている人のための小説入門』を読んだら、『残響』の創作ノートが載っていたんですけど、そこには全くそんなこと書いてなくてぶちあがっちゃって(笑)。別の文脈なんですけど「だって世界ってそういうものだから」という一文があって、それを読んで「そういうものですよね」と納得もしました。
Lil Mercy:ikmくんが『死んでいない者』を読んだ感想は?
ikm:勿論素晴らしかったし、めちゃくちゃかっこいいと思いました。読み終わったあと超騒いでましたし(笑)。(『死んでいない者』の文庫は)まず最初のページがめちゃくちゃかっこ良くて。ひとつのセンテンスがバチッと決まっていて、このスペースが空いてるところもヴィジュアル的にも超かっこいい。文章のフローもすごく好きだなと思いました。もしかしたら失礼かもしれないですけど保坂さんに近い。句読点の打ち方とか。すぐに「俺これ好きだわ」って思ってたんですよね。
『残響』はいろんな場所にいる人たちの気持ちがつながっていくような話だけど、『死んでいない者』はお葬式の話。そのお葬式という、多くの人が経験するけど非日常でもある時間と空間に居合わせた人たちの、思いや感慨が積み重なっていく話で、これも普段は見えないけど、「世界を描い」たものですよね、と思いました。
Lil Mercy:音楽を作っている人が出て来て、自分的にはすごく良かった。読んだ世界が自分の中で反響して増幅されて広がっていく感覚でした。
ikm:その登場人物はフィールドレコーディングをしていて。そこに自分で楽器を弾いて音を重ねてるんですけど、フィールドレコーディングされたものがこの世界の見えてる部分で、そのうえに重ねられるギターの音はその人の内面だと思って、「これって小説(の構造)と同じじゃないですか!」って思ってました。
滝口:ああ、面白い。音楽を作る人だから、言葉と現実の関係をそういうふうに捉えて、小説と重ねることができるんですかね。書き手としては、そういう感覚であの文章を書いたわけではなくて、自然音を取り込んだ音楽、ミュージックコンクレートとかサンプリングとか、面白く聴いてきたし、それをわりとそのまま書いただけだった気がするんですけど。
ただフィールドレコーディングに関しては、僕自身もちょっとやっていたんですね。昔いつもテレコを持ち歩いてて、聞き返すわけでもなく、なにか演奏や楽曲をつくる素材にするとかでもなく、ただ気になる音とか、興がのった時に録音をしてただけなんですけど。テレコの録音ボタンを押すと、目の前でずっと途切れずに続いてる現実のありようが、自分にとって世界のありようが変わるんですよね。“記録されている世界”になる。それによって、現実はなにも変わらないんだけど、こっちの経験としてはレコーダーがオンかオフかでずいぶん変わる。変わらないはずなのに、録音ボタンを押したことで音の聞こえ方も変わる。聞き返すことのできる音として聞こえるというか。それは、小説を書き始める前にずっとやっていたことなので、ikmさんがおっしゃる感覚ともしかしたらつながっているのかもしれないです。
俺の人生には日記を書く人生と書かない人生がある
ikm:『長い一日』の最初のほうはそういう感じですか?
滝口:テレコの録音は日記を書くのと近いですね。記録することによって、記録されたものを生きることになるというか、記録されることになる1日を生きてしまうっていうか。
ikm:それは『茄子の輝き』の「俺の人生には日記のある人生と日記のない人生がある」というラインに近い感覚ですかね?
滝口:ああ、そんな文章が『茄子の輝き』にありましたか。忘れてました(笑)。でも確かに書いたかも。少なくとも、僕の実感としてはその一文の通りです。ちょうど昨日、日記について原稿を書く必要があって、日記についてあれこれ考えてて、俺の人生には日記を書く人生と書かない人生があるな、みたいなことを思ってたんですけど、すでに書いてたんですね(笑)。
ikm:日記を書くと記憶って変わっていくことがあるじゃないですか? 考えたことを言葉にして書き出すと、ちょっと違ってくる。書いてるうちに固まったり、違うとこまでいったりするし。
滝口:書かなかった時にあったものが、書くことによって無くなってしまうこともあるし。逆もあるし。ともかく書くか書かないかで記憶もずいぶん変わってしまうと思いますね。
ikm:胸の中では固まっていたと思ってても、書き出してみると全然まとまってないってこともありますよね。
滝口:後で本を紹介する時に話そうと思ってたんですが、小説って言葉だけでできてるんですよね。その言葉を書いてるのは、書き手以外に誰もいないはずなんだけど、書かれている言葉なり、文章なりが全部書き手ひとりによって生み出されたものなのかというと、ちょっと違う感じもするんです。
音楽や音の話で例えると、録音技師みたいな感覚というか。使うマイクによって拾う音の指向性が変わったり、マイクを向ける方向、置く位置によって録れる音が変わったりする。このマイクだとこういう音は録れるけど、このへんはあんまり拾えないとか。小説を書くって、誰の声をどういうバランスで拾うかみたいな作業だと思っています。実際に書いてるのは僕ひとりで、インタビューとかとも違うフィクションなので、実際の作業的には具体的な対象がある録音とかとは全然違うんだけど、でもやっぱり小説のすべてを自分で生み出しているという感覚はないというか、そういう書き手像は持ってないんですよね。
ikm:なにかのインタビューで、滝口さんの小説にはモデルがいることが多いとおっしゃってましたよね。
滝口:うん。濃淡はあるんですけど、まったくモデルのいない人物というのは書けないなと思うんですよね。去年出した「水平線」もモデルとなった場所や出来事はあるんですけど、登場人物に関してはこの人っていう具体的なモデルがいるわけではないんです。ただ、その場所や出来事にまつわる人物やエピソードから見えてくるいろんな人の断片的な印象とか声とかが反映されていて、実際に僕の手によって書かれてるけど、やっぱり誰かが喋ったことを、聞き返しながら書いてる感覚があります。そういう意味ではインタビュアーとか、それをまとめるライターさんの作業にやっぱり近い気がする。でも、ここが結構重要なんですが、僕は誰かのインタビューをまとめて記事を書く、みたいなことは全然できないんですね。記事などのライティングの技術はまったく別物で、僕はそういうものは全然書けない。もちろんそれっぽい文章を書くことはできるけど、書き始めるとフィクションが入ってきてしまう。で、フィクションの方を取ってしまう。それは小説のライターとしてはいいんだけど、記事のライターとしてはダメですよね。
書き手の関係性が小説のありようを決める
ikm:モデルがいる場合、(書き手は)その人をすごくよく見て、めちゃくちゃ考える。けど、その人の考えと完全一致することは絶対にできない。大阪のタラウマラという自転車屋さんの土井さんという方が書いた「ほんまのきもち」という小説があって。彼はこれまで日記を自費出版されてたので、今回もそういう感じなのかなと思って買って読んでみたら違っていて。
インフォがないので憶測ですが、この小説は土井さんの息子さんの目線で書かれたものだと思っていて。親だし、子供のことは誰よりも見ているし、考えて、理解しようとしていると思うんですけど、この小説は日記やエッセイではなく、フィクションとして書かれていて、それはその一致しない部分に対するある種の誠実さだと思ったんですよね。同じことを滝口さんの『長い一日』にも感じていて、滝口さんにも読んでいただきたくて今日持ってきました。
滝口:ありがとうございます。読んでみます。かわいい本ですね。『長い一日』を書いていた時に考えていたことは、今、ikmさんがおっしゃった通りです。他人を書く時、どう折り合いをつけるか、どう責任を取るかっていう。うちにも2歳の子供がいて、僕が今日記を書くと、ほぼ子供の話になるんです。僕の関心事の大部分が子供だし、家も子供中心に回ってるし、子供のしていることが自分の一日の中心になる。そうすると主体の有り様がすごく変な日記になるんですよ。日記は自分が書き手で、自分のことを書く形式なのに、子供が主語で、子供の行動や言動ばかりがどんどんつながっていく。でもそれが今の僕の、というかたぶん小さい子供がいる人の日記で、変なんだけどそれが自然でもある。そして危うくもある。その危うさの解決として、僕はフィクションにしてしまったりするんです。逃げを打ってる自覚はあります(笑)。
Lil Mercy:自分はこの書き方をされてるからこそ、滝口さんの世界だけでなく、そこから広がっていく世界が文章に表現されていると感じました。
滝口:さっきも言ったけど小説って言葉だけでできてるんですよね。で、しかもそれは戯曲とかと違って、その作品における語り手というひとりの存在から発せられている体の言葉なんです。ということは、作中のどんな発話も呟きも、その語り手たる誰かのもとに属した言葉だと思うんです。作中に登場する誰の言葉も、すべてその人を経由していて、さっきの録音技師の例えで言えば、すべての音はその技師の意向のもとで録音された音であるというような。
理論的には、そういうバイアスを極力排した、ただ見えただけ、ただ音や色があるだけ、みたいな文章を書き連ねていくことはできると思います。けど、それは誰の言葉で、どのようにそこに記録されたのか、言葉の発信元がどこにあるのかってことは、直接的でも間接的でも示されないと読み手は安心できないし、それはその言葉の信用にかかわる。
小説には、会話とか内心の呟きだけでなく、いろんな種類の言葉が混ざり合っています。そのいろんな言葉を誰がどう感知したのか。人間の視界には限界があるし、耳の可聴範囲や指向性もある。たとえば聴覚の鋭い動物は人間とは全然違う世界を生きてると思うし、それを言語化したら人間の見聞きしている世界とは違う世界がそこに現れるでしょう。そこにある個別性を持つ身体があるから、言葉にすることができる。だから内面が入ってくるし、揺れや曖昧さが入ってくる。それが哲学と小説の違いだと思うけど、そこに葛藤もある。文章から我を消したい欲望というか、その個別的な身体を絶対化したいわけではないという思いが常にある。書き手をプレイヤーでなく録音技師に例えることや、日記の私性からフィクションに逃げる感じっていうのは、僕としてはその解決法としてある気がします。
だから自作については、まあ自作だからこそ、曖昧に語れるところがあったりするんですけど、そしてそれはかなり実感を伴う曖昧さなんですけど、やっぱりどっかで作品の構成する言葉の主体を書き手が何らかの形で引き受けないといけないとは思っています。それが現実の自分になるのか、自分が書いたフィクショナルな誰かになるのか、だったらその誰かと書き手はどういう関係性にあるのかっていうことを考えないといけない。
で、それを考えることが小説を書くときに考えることだし、他人の小説を読む時に考えることですね。あらゆる小説を読む上で、その言葉とその言葉の所属する元、というか発信する誰かと、書き手、その関係性はみんな絶対違うはずで、その関係性が、その小説のありようを決めていると思う。自分がこれから小説を書こうって時も、そこが見えてくると書き始められる。
音の波長を合わせるみたいにその人の言葉を頭の中で語れるようになる
ikm:滝口さんの小説って、三人称で書かれた思考がファジーに違う人に移っていきますよね。
滝口:デビューしたての頃は、人称を固定して、人物が感知しうる範囲を決めて、そこから外れたことは書きませんでした。でも例えば保坂さんの『残響』はそういう固定的な語り方では起こるはずのない、感じるはずのないだろうことが響き合う。で、現実は実際そういうものだと思う。というか、そういうことがあることを知ってる。
人間の考えること、感じることはもちろん、世界は一人称の自分が感知できる範囲でしか起こり得ないものではない。だって、例えば今こうして話していても、ここにいない人のこととか、昨日のこととか、脈絡のないことを不意に思い出したりするじゃないですか。もしかしたらそこには気づかない脈略があるのかもしれないけど、それを自覚しないままいろんなことを思い出す。
Lil Mercy:気がついたらそこにいたはずの人のことばかり考えちゃう。しかもその人が考えてる(であろう)ことを考えちゃうみたいな。「あの時ってこうだったのかな?」とか。自分もそういうタイプなので『長い一日』や『残響』にすごく没入できたんだと思います。
ikm:こういう表現は小説ならではですよね。三人称の文章だと状況の描写を積み重ねていくから、あまり感情的にはならないじゃないですか。でも滝口さんの三人称の文章には突然感情的な言葉が入ってきて、読み進めていくと「あ、これは別の人の考えなんだ」とわかる。その移り変わりがすごく好きです。
滝口:人は誰かのことを常に考えてしまうものだと思うんですよ。三人称の単視点で別の誰かの内面にいくのは文章作法的におかしいと思いがちだけど、そんなことなくて。人は誰かのことを思うと、その人の声を思い、その人が言ったことや言いそうなことを思い、まるで自分がその人であるかのように語りだしてしまう。そこから別の誰かを連想したり、その別の人の言葉もどんどん使うことができる。誰かを介せば、会ったことのない人のことも、会ったかのように思い浮かべられたりする。
Lil Mercy:録音技師の話じゃないけど、その人のことを考えているから、音の波長を合わせるみたいにその人の言葉を頭の中で語れるようになるというか。
滝口:そうそう。(登場人物の)頭上にマイクがあって、それが移動する感じ。ふつうそのマイクは動かしちゃいけないと思われがちだけど、実際にはそんなことなくて。いくらでも動かせるし、むしろ自分の思考が誰かのところに飛んでいくほうが普通。実際みんなそうしてるでしょって思う。言葉を使って考える時って、自分の言葉じゃなくて、むしろ人の言葉のことを考えてると思う。
ikm:俺が考えたことはあながち間違ってなかったってことでいいですかね(笑)。
Lil Mercy:一般的にレコーディングする時は、マイクが固定されていて、歌う方は動くことで距離を作るけど、滝口さんの文章はそのマイクを動かしちゃうってことですよね? そうすることによって、少しずつ場面を変えられたりとか、その人との距離も変わっていくイメージはすごく面白いと思いました。
滝口:ここに水が流れていたとして、マイクを近づければ音は大きくなるけど、離せば音は小さくなる。音楽のレコーディングでなくて、映画の撮影で、長い棒の先に付いたマイクがありますよね。それを録音の担当者が持って、この音を拾おうと動かす、あのマイクの感じかも。それと同じで、文章も常に恣意的なんです。フラットな文章とかフラットな散文なんて言っても、それはそういう意匠であって、そう計算されてつくられただけであって、本当に素朴で純粋なわけではない。だったらその恣意性を書き手として積極的に引き受けないと。そのためにはこの言葉が誰の下でどのように発されているのか。しかもそれは声とも違うわけですよ。
音声ではないので、実は小説の言葉ってすごく変なんです。それがどういう過程を経て文章になったのか、そこが秘されている。今この会話をレコーダーで録音しているけど、そのまま文字にすると、ぐちゃぐちゃというか、そのまんまじゃ読めないような文章になりますよね? リアルな発話ってそういうものなんです。だから文章における言葉や会話の流れとは、非常にトリートメントされたものなんです。それすらもフィクションなんですよ。
Lil Mercy:トリミングの仕方でも変わりますよね。
滝口:そうなんです。実は文章には何重もの作為と構成が入っている。繰り返しになるけど、だからこそ書き手はその言葉がどういう出所で、そこにどのような関係性と構造があるのかってことを、小説を書く時に考える。そこが決まると小説が動き出すんです。