【Riverside Reading Club feat. 滝口悠生】
- 作家とは、マイクで音を拾う録音技師の仕事に似ている?
- 「この時間に何の意味が」みたいな瞬間を、ないことにしたくない
- 小説における「フロー」は内容と同じくらい重要だ
否定が何かに向かう力に
滝口:もう1冊は小説ではないんですけど、最近出た本で、金川晋吾さんというフォトグラファーがお父さんを撮った『いなくなっていない父』という本です。金川さんは結構前に失踪を繰り返すお父さんを被写体にした『father』という写真集を出しています。『father』には金川さんの日記も載っているんですが、今回の『いなくなっていない父』はその『father』の制作とその後も撮り続けている被写体としてのお父さんについて書かれた本になります。写真も少し載っていますが、基本的には文章ものの本と言っていいと思います。
さっき僕は、モデルがいて、その誰かの話を書こうとすると、必ずどこかで虚構みたいなことが入ってきて小説の形になる、まるで他人が話すのを聞くように文章を書くことで書き手としての責任を引き受けてるみたいなことを言いましたが、金川さんのスタンスは言わば真逆なんです。『father』に載った日記は実は結構虚構的な部分があったっぽいんですが、『いなくなっていない父』では、自分と家族のことを、虚構ではないノンフィクションという形で書くことを引き受けているように思えました。
ただありのまま書くだけじゃなく、書けばそこに自ずと虚構が入り込もうとする、それをいかに排するか、ありのまま書くことなんて可能なのかと格闘しながら書く、そんな文章で、書くことに向かう金川さんの姿勢に感動したんですよね。さっき僕が言った、フィクションに逃げを打つ、みたいなこととは全然違う、反対のことをやろうとしているのではないかと。それでいて、別に重たくも、どぎつくもない、なんなら笑えるところもあって、そこに金川さんの現実感みたいなものが表れていると思います。
今日も読み返してて気づいたんですけど、タイトルが象徴的なんです。「こうではない」「こうでもない」「そしてたぶんこうでもない」という否定を重ねていくんです。そこに父と子という実際の関係性や、最近は失踪してないとか、いろいろあるんだけど、対象である父という存在のありようが、確定されないんですよね。ずっと保留されてる。「ああかもしれないけど、こうかもしれない」みたいな。アンビバレントな、二律背反な状態で文章が続いていく。こういう緊張感は僕はやらないし、やれない。書くことをどう引き受けるかと考えた時に、こういう文章があるのか、と思ったと言いますか。
ikm:これも解決しない。
滝口:全く解決しないです。
ikm:(解決)しようとしない感じですか?
滝口:解決を全く志向していないわけではないと思うんです。けど、解決なんて嘘だろっていうか。お父さんが何をしたいかなんてわからないわけだし。
ikm:しない様を肯定するというか。そういうもんかなってことはありますよね。
滝口:あとときどき載ってる写真と、それが入るタイミングというか、本の構成も面白い。結構シリアスな出来事を撮った写真なんですけど、不意にカットインされると笑ってしまったりする。シリアスで全く笑えない状況ではあるんですけど、そこに笑いがまったくないかというとそうではないという。そこは金川さんの写真にも共通する魅力だと思います。背反的だったり両義的だったり、ともかくひとつの意味に収めない。そこは僕が共感するポイントでもあります。
ikm:『死んでいない者』はまさにそうですよね。シリアスさだけにフォーカスしちゃうと、たぶんポルノになっちゃうから、そこに絶対に存在する笑いもちゃんと書く必要があるんでしょうね。
滝口:否定辞を重ねていくのも、自分の文章の癖というか、思考の癖としてあって、だから文章を連ねていくスタイルとしてもシンパシーを感じます。「こうである」と言葉を重ねていくこともできるけど、言い切ってしまうといろんなものが捨象されてしまう。じゃあどういう言葉の使い方をすればいいのか、現実に対していくらかでも誠実にあれるかと考えた時、「こうではない」「こうでもない」と違うことを書いていって、物事の本質のように思える「これ」は示さない。
Lil Mercy:あえて広く。
滝口:そう。いわゆるスローガンやキャッチコピー的な言葉とは対照的な言葉の使い方で、そういうものに抵抗があるんだなというのは、アメリカに行ったときにすごく思って、あらためて自覚しました。『死んでいない者』をサンプルとして英文に翻訳してもらったんですけど、あーでもないこーでもない、しかしこうではない、みたいな文章が英語になると、書いた自分でも何書いてあるかわかりませんでしたもん。英語と日本語の差という部分もあるんでしょうけど。「これ」を指し示すのではなく、その周りをぐるぐるするっていうか。
Lil Mercy:シンプルに言い切っちゃうと違うというか。点ではないというか。でも否定する中で浮かび上がってくることってありますもんね。輪郭はそこまではっきりしてなくていい。
滝口:「I'm here」みたいな明確に切り詰めた表現って日本語でやっぱりなかなか言わない気がするんですよね。反語表現も多いし、否定と逆説や否定辞をくっつけて、そこに敬語の婉曲なんかも混ざって、「こうなのだが、こうである」という逆接を経ての1セットで考えがちというか。で、書き言葉でもそれが文章の推進力になってつながっていくという実感がありました。でも、英語に触れて、その良くない面もあるのかもしれないと思った。ネガティヴすぎるんじゃないかとか。あと責任の所在が曖昧になってしまったり。日本語の、というか日本の良くない部分にも関係してるかも、とか。
でも否定することで何かに向かっていく力になることを、金川さんの『いなくなっていない父』ではやっていて。そういう意味でシンパシーを感じました。書く対象と書き手の関係性っていうことで言うと、ノンフィクションを引き受けることで、文章に緊張感が生じるんだなっていうのは小説にできないことだなとも思ったんですよね。
例えば、どういう時はお父さんが失踪しないか、みたいなディテールが細かく書かれているんですよ。それって小説だったらどういう物語にも所属できなさそうな感じっていうか。でも金川さんはそこを大事にされてるんですよね。この本は日本語の散文のすごいところまで来た本だと思います。シリアスな現実に残ってしまう軽みとか笑いを捨象せず、ナンセンスで処理するのでもなく、書くことが、感情とも記憶とも違う現実を探し出す方法になっている。いろんな人に読んでもらいたいなと思います。
言葉になってなかったのが書かれた
ikm:これも気になりますね……。
滝口:最後は『学校するからだ』という本です。著者の矢野利裕さんは中高一貫校で国語の先生で、小説や音楽の批評家でもある。その矢野さんが学校を批評した本なんです。いろんな話題について書かれてるんですけど、キーワードは「からだ/身体性」なんです。矢野さんはサッカー部の顧問をされているので、部活に関する話もいろいろ書いてあって。たとえば顧問として、集合した部員たち相手に何か訓示を述べるような場面があります。話が終わると、部員たちが声を揃えて「っした!」というんです。
Lil Mercy:「ありがとうございました!」的な(笑)。
滝口:そうそう。でもそこで声が揃うっていうのは、実は先生と生徒のあいだの阿吽の呼吸みたいなのが働いていてるらしいんです。じゃあ、それはどうやって行われているのかっていうと、矢野さんは話し終わるときに「はい以上です」を終わりの号令にしてるらしいんですね。実は先生の方から合図を出してる。しかも、部員をよく観察すると、実は誰かが矢野さんの「はい以上です」を察知して、みんなの「っした!」を誘導する「すぅー」という小さな呼気を発していて、それを他の部員が感じ取って「っした!」という返事が実現しているらしい。つまり単純な部活の掛け声ひとつ取っても、ひじょうに複雑な、有機的な共同作業が行われている、と言ってるんです。
ikm:意識していなくても、いろいろな場面で起っていそうなことですよね。
滝口:うん。さっきの「からだ/身体性」というのは、言い換えると学校にはいろんな生徒、いろんな先生がいて、それぞれ個別であるということなんです。固有の身体を持ち、ということは個別の特徴があり、個別の感性がある。例えば運動会なんかは軍隊のスタイルを残したものではあるけど、その中で固有の身体性を守るというか、矢野先生が生徒や先生を個別に扱うためにどういうことを考えているのか、というのが具体的にいろいろ書かれているんです。異なる身体を持つ他人同士が、同じ場所でどうやって互いに存在するか、共同するかについて考えることを通して、またそれぞれの身体の個別性を再発見するような。
その思考の過程って汎用性が高くて、いろんな仕事や環境に敷衍できる。たとえば僕が今まさに当事者である育児においても、子供を抱っこする場面において、抱き上げる側と、抱き上げられる側に、身体の使い方とかに阿吽の呼吸があるな、とこの矢野さんの本を読んで気づかされました。社会のあらゆる場面で、個別の身体による共同作業ということが行われている。あるいは、それが不可能なところが、まさに社会問題になっている。あともちろん小説について考えるうでも大変示唆的で。さっきフローの話があったじゃないですか?
Lil Mercy:それぞれの人の、それぞれのフローがあるってことですよね。個別だからこそ相手のことを考えて、合わせることでよりスムーズな環境が生まれる。
滝口:小説それぞれに文章のありようが違う。読むときって(文章のありように自分を)合わせる作業があると思うんですね。時間がかかることもあるし、すっと入れることもあるし、合わないこともある。この本を読んで、なんか自分の身体というか、言葉の受け皿をこれから読む小説に合わせる、みたいなことも考えましたね。
Lil Mercy:さっきのサッカー部の例みたいな。自分も会話だったら、結構人に合わせる方だと思います。はっきり言うことを求められる人にははっきり言うし。だけど、その先、つまり相手もこちらに合わせてる、というのは考えたことなかったです。一人が書いた小説や、一人が作った音楽にも受け手はたくさんいて、それぞれが……ということですよね。音楽だとコールアンドレスポンスがそういう役割を果たしてて。その間の取り方というか。すごく細かい所作で、広義のフローを作ってるとこはありますね。
滝口:実は緻密なことが行われてる。
Lil Mercy:そうですね。よーく見ると見えてくる。
ikm:緻密だけど、自然すぎて言葉になってなかったのが書かれてるみたいな感じですかね。
「フロー」とは?文体とは?
滝口:あと矢野さんはKRSワンを授業に取り入れてるんですよ(笑)。なにか本を題材にしてて。
Lil Mercy:『サイエンス・オブ・ラップ―ヒップホップ概論』じゃないですかね?
滝口:そうそう!
Lil Mercy :YUKSTA-ILLにあげちゃったんですよ。たまに読み直したくなりますね(笑)。ヒップホップのコミュニケーションで言うと、仙人掌はうまいんですよ。どういうライブでも責任を引き受けて投げかけるから、お客さんもちゃんと返してくれる。会場の大きさやライブにおける自分の役割もちゃんと理解してて、その上で自由自在にやってる感じがします。
ikm:小説のフローってあんまり語られないけど、内容と同じぐらい重要だと思うんですね。
滝口:フローはどういう言葉に言い換えられますか?
ikm:文体の出す何かですかね。
滝口:そうなるとまた難しい問題があって。つまり文体とは何かっていう。
Lil Mercy:うねりみたいな感じですか? 気持ち良さも、気持ち悪さもあって。
ikm:気持ち悪いことが悪いわけでもない。俺はフローと内容がグルーヴを生むと考えていて、そういう意味だと小説というか、文章のフローを言い換えると、読み心地なのかもしれない。
滝口:となると、そのフローの所在はどこなんですかね? 感じるのは読み手じゃないですか。そうなると読む行為の中にある?
Lil Mercy :自分は文章にあると思います。言葉が並んでいることによって、読み手の中にフローが生まれていると思うから。
ikm:音読するとまた違うものになりますし。黙読してるときに感じるもので、声に出すことで自分のリズムで読んじゃうと、文章の中にあるフローって再現できない気がします。
Lil Mercy:(読んでいるのは自分だけど)読まされてるみたいな感じっていうか。意味がわからなかったとしても止まらずに読んでいくと「何これこういう感じっぽい」みたいな。
ikm:そういう意味で、見た目も結構関わってて。文章を読むときって、一文字ずつというよりは単語を追っていきますよね。その切れ目、つまり句読点が、自分の話し方じゃないところだとちょっと違和感があって。それがたぶんフローになると思うんですよね。
滝口:面白い。どっちかっていうと読書論なのかもしれない。文体って言葉の曖昧さも含め、感覚的にはわかるけど、そのへんはなんかうまく言語化されてないもののような気がします。
ikm:自分がフローを意識したのって、翻訳された文章を読んだ時なんですよ。俺らは翻訳フローって言ったりするんですけど、やっぱり翻訳されたものって、ちょっと違和感が出るから。でも自分はその違和感が好きで。翻訳小説が読みづらいって人もいるけど、それはたぶんその人と文章のフローが合ってないからじゃないかと思う。俺は読みづらさもフローだと思うんですよね。句読点の打ち方ってやっぱ癖が出るから、自分と違うところに打ってあると違和感があるんですよ。
Lil Mercy:そういう意味では「これがフローだ」という明確な表現はないと思います。それぞれ違う。パンチラインから派生するフローもあるし。そういう意味では読み手の中にも「これがフローだ」という感覚が存在してるか否かっていうのもあると思う。英語の文章はもともとライミングしてて、それを日本語に置き換えられなかったときに出てくる異物感がフローになってるというのも多いと思うんですよ。それは翻訳家と作るフローだと思う。
滝口:英語の文章のほうが日本語の文章よりも音が強いと思うんですよ。音読に向いてるっていうか。日本語の文章はすごく独特な成り立ちだから。
ikm:欧米圏はラップやヒップホップと関係なく韻を踏みますもんね。
滝口:日本語の今の文章を遡ると講談とかが元になっていて。けど、あれもやっぱ音声じゃないですか。それを黙読する文章に移入したみたいな。それまでの文語は掛詞とか枕詞みたいな文化だったのが、一気に講談のスタイルを持ち込んで、そこから発生してるから、声の所在が謎になってるんですよ、日本語の散文って。それを黙読するっていう。結構不思議な成り立ちなんです。
ikm:確かに最近オーディオブックを聞いてみたけど、フロー的な意味ではなく、めちゃくちゃ違和感があったし(笑)。
滝口:この話はすごい面白いですね。今聞いた感じだと、フローっていうのは僕は文体とも違うと思う。文体って使いやすい言葉だけど、「じゃあ文体って何のことよ」と問われると説明が難しい。それは音読したときのリズムなのか、文章の長さなのか。だいたいそういうものを指してるけど、あらゆる文章のあらゆる書き手に同じような意味合いで使えるかって言ったら……。
ikm:だとすると、やっぱ読み心地なのかな。
Lil Mercy:自分はこの『ラーメンカレー』の長いんですけど、”久しぶりのタバコを吸ったのどの感じになっただけだった”っていうあたりから章超えて”私の喉は子供のままなんだろうか。乾きは潤すものではなくて、そこにたっぷりと水を満たすべきものだと思う。”の流れとかめちゃくちゃフローしてると思う。おーってなりながら読みました。
滝口:……声みたいな感じなのかな?
ikm:フローというと、発話のような雰囲気があるけど、流れなんですよね。
Lil Mercy:読んでて気持ちいいなって持ってかれる感じがあるんです。
ikm:たぶん書かれてる内容にも関係してて。エンタメ小説はゴールに向かって一直線に進んでいくから、読みやすさが重視されていて、自分たちが考えるようなフローが出ない。というか、出さなくていい。でも滝口さんの小説はそういうのじゃない。文章表現がアートとしてあって、話もある。俺はそういうのが好きです。
滝口:なるほど、やっぱり声だけとも違う、複合的なものですね。流れか。
ikm:だからラップのフローとも違うんですよね。俺たちは音楽も好きだから、つい音楽に例えがちで、フローとか言っちゃうし、いろいろなものを音楽に例えがちで。
滝口:なるほど。流れって指し示しにくいですよね。川の流れも、どこがどうだとかは捉えにくくて、全体的なものって感じがするし。音楽だと、複数で同時に経験できるから共有の確認みたいなことができるのかな。ちなみにラップのフローはどういう言葉で説明しますか。
ikm:ECDさんが、新しい訛りを発明する、みたいなこと言っているのを読んだことがある気がします。
Lil Mercy:フローは人それぞれ日々研究してるから、人によって違うと思うんです。
ikm:と同時に、フローが好みだとリリックの内容も耳に入ってくるみたいのもあって。
滝口:ということは、声も関係ありますよね?
ikm:ラッパー自身が自分の声にあうフローを発明するみたいな感じもあるんじゃないかと想像しています。リスナーとしては、それがバッチリあっていたならリリックも自然と入ってくるみたいな。
滝口:小説を書いてる時に、何を一番するかっていうと、読み返すんですね。で、何に基づいて直すかっていうと、自分のフィーリングなんです。「ここは何かが転じてるな」とか、「うまくいってないな」って所をちょっと調整するんです。そこでやってることはたぶん今話してるフロー的なことに関係あるんだと思うんですよ。しかも単純に流れをスムーズにするだけじゃなくて、さっき言ったようにちょっと滞らせるというか、弱めたり強めたりするみたいなこともします。あるいはマイクの指向性みたいなつまみを、PA的にいじることで起伏がついたり。
Lil Mercy:たぶん今日自分たちが話してた「フロー」の中身は、こうして話してみると書き手と読み手が共同に作り上げていくもののような気がしますね。しかもこうやって1冊の本になるまでに装幀をする人、デザインする人もいるわけだし。全ても含めて、読み手の中で「ここがフローしてる」って感覚がある。
ikm:小説ってみんなで読めなくて、本と自分の一対一の関係にならざるをえないからその時に感じることもそれぞれなんだけど、それを考えたり今日みたいに話したりするのもすごく楽しい。
滝口:書くほうもいろいろしてるし、読むほうも、凹凸も起伏も文字の羅列から生じている何か、なんかしらの変化みたいなものに乗れるみたいなことが起こってるってことなのかな。