【Riverside Reading Club feat. 滝口悠生】
- 作家とは、マイクで音を拾う録音技師の仕事に似ている?
- 「この時間に何の意味が」みたいな瞬間を、ないことにしたくない
- 小説における「フロー」は内容と同じくらい重要だ
「なんの意味があるんだ?」みたいな瞬間を取りこぼしたくない
Lil Mercy:自分は『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』がすごく面白かったんです。いろんな国の作家や詩人、大きな意味でのライターたちがアイオワ大学で行われた約10週間の滞在型プログラム「インターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)」に参加した時の話を滝口さんが日記形式で書かれていて。みんながみんな英語でのコミュニケーションが得意なわけじゃないから、「こういうふうに言ってるんじゃないか」と書いてて、しかも後で「本当はこういうことだったんじゃないか」とも書いてますよね。あの感じはすごく生々しいと思いました。
自分もアメリカに行った時、人との会話でこういうことを経験したんですよ。会話の時はぼんやりしてて、後で「あの時言ってたのってこういうことか!」みたいな。でもそれがわかった時に言うタイミングじゃないと思って、結局言えずじまいになっちゃったり。アメリカで経験したことを文章にすると、事実ではあるんだけど、だいぶ憶測も入ってる。
滝口:これ(『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』)は日記の形式が大事だったんですよ。小説やエッセイになると、何かしらの過程があって、結局こうでしたというユニットにしなきゃいけない。けど日記という大義名分があれば、とりとめもない過程が書ける。“日付とその日の出来事を書く”という枠が設定されると結論や結果を書かなくていいんですよ。
ikm :俺は滝口さんの作品に日記性があると思ってて。(物語の)落ちがある話じゃなくて開いてる。俺は解決しない物語が読みたいから、滝口さんの作品が好きなんだと思いました。
滝口:その感触はとっても大事にしています。「この時間になんの意味があるんだ?」とか「あれは一体何だったんだろう?」みたいな瞬間をなるべく取りこぼしたくない。ないことにしたくないんです。
ikm:『長い一日』の「なるほど、小説というのはそうやって全てを記録できないこの現実を、言葉で書き換えて読んだり話したりできる形にするものなのか」という台詞がすごく好きなんですけど、この小説自体もそういうことなんだなと思いました。
Lil Mercy:最初に読んだ時、自分はオーゼキの話が印象に残ったんですよね。自宅の近くにはないけど、パートナーの家の近くにはあってよくオーゼキの話をしてて。読んでて「そうなんすよ」とうなずいて入り込んでしまいました。
滝口:こういう何もない話、起承転結も何もない話って、一気に全部まとめて書き下ろすとこうならないんですよね。オーゼキのところもいらないっちゃあいらないし。日記みたいに書いた最初の2編も、その後に続く話とのつながりはおかしくて、全体の構成としてはいびつなんです。小説だと輪を閉じなきゃいけないじゃないですか。いや、いけないことはないんだけど、閉じないなら閉じない意味みたいなものが求められるんだけど、『長い一日』は毎月の連載だったので、その連載という形にあぐらをかいたというか(笑)。「始まりの地点から終わりの地点まで移動しました。帰ってきませんでした」みたいなことでいいやって。ちょっと迷いましたけどね。
ikm:俺は本当にすごいと思いました。
滝口:そんなことする人いないと思いますけど、この作品の世界を細かく分析すると、絶対におかしい部分があるんです。ズレというか、齟齬というか。
ikm:でも日記じゃなくて小説だから、みたいな感じもありますよね。
滝口:うん。それにズレとか、思い違いとかって、世界の、人間のそばに普通にある感覚、普通にある事象だと思うんですよね。
ikm:保坂さんの言葉じゃないですけど、「だって世界ってそういうものだから」ってことだと思うんですよね。
Lil Mercy:自分は昔ノンフィクションで突然思い出して、別の話になる展開が苦手だったんですよ。でも滝口さんの作品を読んでから、(ノンフィクションに出てくる)そういうズレを愛おしく感じるようなりました。話しながら昔のことを思い出してる感覚。それに文章に関しても、別に起承転結みたいなことも気にしなくていいのかなって。もちろん論文みたいな文章には必要だろうけど。人とのつながりの中から滝口さんの作品と出会ってそこに気づけて、しかも今日こうして実際にお会いしたら地元が近かったというのもなんだか不思議な縁だし。
整理されてない言葉に滝口さんの魅力
滝口:ズレって難しいんですよ。例えば『死んでいない者』にはすごく大勢の登場人物が出てくるじゃないですか。自分で「この人は何歳、この人は何歳」って決めてはいるんだけど、書いてると自然にズレてきちゃうんですよ。で、それを校閲さんに指摘されたりする(笑)。「この人は何年生まれだから何歳で、この人とは何歳差だから、どっちを直さないとおかしくなりませんか?」みたいな。「なるほどその通りだ」って思うけど、親戚の集まりで甥っ子や姪っ子の歳の差を全部把握してる人なんていないだろうとも思うんです。絶対間違っている、というリアルのありようもある。とはいえ、という部分もあって。難しいところなんですよね。
ikm:この間、読書会をやったときに話したんですけど、『死んでいない者』って(登場人物が)いっぱい出てくるから、人を覚えられなくて、この人が誰のおじさんとかも覚えられないけど、実際に自分がこの場にいても絶対に(関係性を)わからないから、覚えずに読んでもいいんじゃないかって話をしてて。こういう書かれ方をしていたら、そういう読み方をしていいって思いました。
滝口:そうそう。家系図というか、人物相関図を書きながら読む人もいるし。なんなら出版社の人からも「相関図載せますか?」みたいな話もあったんですよ。でも僕は「いらないっすね」って。むしろ邪魔かなと思った。編集者も「ですよね」って。
Lil Mercy:その読書会の時に自分は(相関図を)書いて読み直そうと思ったんですよ。けど途中からだんだん「あんまり意味ないんじゃないかな」「わかんないし」となってきて(笑)。
滝口:あとわかったところで何も得られない(笑)。
ikm:相関図ってミステリーとかによくついてるけど、あれは解決する話だから必要なんだと気がつきました。
滝口:今ね、別の雑誌で親戚の集まりの話をいろんな人の視点で書いてるんですね。それは語り手によって人物の年齢が違うんです。意図的にぐちゃぐちゃにしてます。普通、意図的にそういうことをする場合、どこかに基準を定めてズラしていくんですけど、今回は最初からみんな言ってることが違うので、ぐちゃぐちゃに間違っててもいいという状況を作り出しました。これを、ずっとやってみたかったんですよ。
ikm:語りが一人称なら、ぞういうズレが起こることは一般的にもありうることですよね。
滝口:うん。でも書き手はかなり緻密にやらなきゃいけない。そうじゃないと読者がどこに寄り添っていいかわからなくなってしまうから。小説の言葉は日記と違って事後的なものというのはそういうことですね。ズレが読書の決定的な邪魔になってしまう。
ikm:事後的、というのは整理された言葉、という意味でもありますよね。でも俺は整理されてない言葉の部分にも滝口さんの魅力を感じます。
小山田浩子さん「名犬」はファンキー
滝口:整理されていない部分を必死で残すようにしてるんです。ただただ何も考えずに残っちゃうのと残すのとはまた違うので。残すべく言葉を残す。それは、書き手、その言葉の発信元、言葉、3者の関係において、残せるような土壌を作ることなんですよね。読み手がこの言葉に全幅の信頼が置けない状態になっちゃうとやっぱり元も子もないから。
ikm:小説として成り立つバランスみたいなことですか?
滝口:そうですね。そういえば、この取材の前に下北沢で軽く打ち合わせをしたじゃないですか? その時、ikmさんがフローということをおっしゃっていて。そこで思い浮かんだのが小山田浩子さんで、特に『庭』という短編集に入っている「名犬」が好きなんです。わかりやすい特徴で言うと、小山田さんはすごく改行の少ない書き手なんです。改行や句読点にはルールがありませんよね。一文はすごく長くてもいいし、改行だってしなくてもいい。そこに書き手のフロー的なものが表れると思ったんですよ。会話に鉤括弧を使うけど、改行せずにつながっていく。
ikm:俺は改行された会話が続いて、めちゃくちゃスペースが空いてるページがあんまり好きじゃないんです。文章がみっちり詰まったほうがかっこいいと思う。会話で改行するのってマンガの吹き出しと同じだと思うんですよ。マンガは絵があるからいいけど、小説だと文章の中に会話が入っていたほうが自然だと思思ってます。
滝口:これもまた別の話ですけど、小説の会話文って、よく考えたらすごい謎で。小説の中の発話は言い間違えたり、淀んだりしない。綺麗な言葉として書かれています。括弧でくくられていると、まるでそれが音声のように読む側に視覚的に訴えてくるところがある。マンガの吹き出しなら、発話であるってことがビジュアルとしてわかるんだけど、でも小説の会話って誰が聞いて、このように表示されてる言葉なのか。会話をどう書くか、どう文章の中に入れ込むかも、書き手が恣意性を引き受けないといけないんです。
ikm:括弧と改行が続くと、めちゃくちゃ読みやすいじゃないですか。フローって引っかかりだから、読みやすいと出ないんじゃないかなと。句読点も引っかかりなので。ストーリーで引っ張っていくようなエンタメ小説にはあっていると思うんですけど、アートフォームとして小説を読む時、改行の会話が続いちゃうのはあんまり好きじゃないんです。
滝口:そういう意味だと小山田さんの文章はめちゃめちゃ重たい感じです。ベースが効いてるっていうか(笑)。もうね、すごいファンキーな感じ。
ikm:ボトムが重い(笑)。
滝口:そう。重くて太ーいベースが聞こえる。イメージなんですけどね。
ikm:グルーヴ的な。
滝口:夫婦がどこぞの山あいにある夫の実家に帰省する話で、妻の目線で語られていくんですが、夫婦は農業をしてる夫の両親に温泉旅館をプレゼントしようと用意してきた。でも両親に「今忙しくてそれどころじゃない。お前らで行ってこい」みたく言われて、結局夫婦で温泉宿に行くことになるんです。
好きなのは、妻が露天風呂に入ってるとこで。先に入ってた2人のお婆さんたちの会話を聞いてるんです。かなり強い方言で、ところどころ意味がとれない。そのやりとりが面白いんですよ。2人は木の実を食べながら、自宅の梅の話から、孫の話になって、いつのまにか犬の出産の話になってる。結構残酷なことも平気で言う。お婆さんの話を聞いてる妻の心情も語られるんだけど、不意にお婆さんの会話の中に「カァー」という感嘆詞が入るんです。ここがすごく好きで。引っかかりという意味でもファンキーだと思ったんです。
ikm :会話の未整理な部分ってことですよね。
滝口:そうそう。小山田さんは広島の人なんですけど、だからこのお婆ちゃんの会話は広島とかあのへんの方言なのかなとなんとなく思っていたんですが、小山田さんに会った時、この「カァー」について聞いてみたら、そんな言葉はないらしくて(笑)。2人の会話もいろんな方言をミックスしたもので、実際には存在しない方言らしいんですよ。
Lil Mercy:このお婆ちゃんたちの会話も呪術性がありますよね。
滝口:全然改行がない密なページで謎の会話が進んで、その内容のエグさみたいのと、そこに急にくる存在しない感嘆詞(笑)。小山田さんの小説の特徴のひとつはこの重たさで、基本的にウェットであんまり明るいトピックはないんだけど、どっかで急に「カァー」みたいなファンキーなのが入ってくる。笑える話じゃないんだけど、思わず笑ってしまうというか。打たれる感じがあるんです。
ikm:今日、帰りに買おうと思います。
滝口:僕は「名犬」が好きなんで『庭』を持ってきたんですけど、芥川賞をとった『穴』とか、デビュー作の『工場』も素晴らしいです。『小島』という短編集が近刊かな。小山田さんは広島あたりの夫婦と実家との関係みたいなことをずっと書き続けていて、フォームは全部同じっちゃあ同じなんですよ。老練のブルースマンみたいな感じというか、名噺家の古典落語というか。でもだからこそ全部いい。カープの話だけしてる短編とか。
ikm:ずっと同じことを書き続けている人には、そこにも魅力が出てきますよね。