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歌人・小佐野彈さんの生きる指針になった「学問のすゝめ」と「道徳感情論」

「学問のすゝめ」と「道徳感情論」

 僕は1990年に慶應義塾幼稚舎という小学校に入学してから慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程を単位取得退学するまで、(休学期間などを除けば)都合4半世紀を慶應義塾という学校で過ごした。

 慶應義塾の創立者は、言わずと知れた福沢諭吉だ。幼稚舎を卒業し、中等部に入学してすぐの国語の授業では、「天は人の上に人を造らず」の書き出しで有名な福沢の『学問のすゝめ』第1編をまるまる暗唱させられた。13歳当時は意味などろくにわからず、ただ経文のようにひたすら暗記しただけだった。でも、「一身独立し、一国独立す」や「独立自尊」といった、近代市民社会を生きる近代的個人として必要な精神や、「ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読」むような漢学や儒学などの「虚学」ではなく、仮説と実証に基づく西洋近代の「実学」(サイヤンス=科学)の重要性を説いた『学問のすゝめ』の内容は、いまも経営者として、そして作家としての僕の思想や生活に根ざしている。

「天は人の上に……」のフレーズが有名になりすぎてしまったせいか、『学問のすゝめ』は薄っぺらいヒューマニズムを謳った本のように思われがちだが、全然ちがう。本来平等であるはずの人が、なぜ「賢人と愚人」に分かれてしまうのか。それは近代科学を「学ぶと学ばざる」によって差異ができてしまうのだ、と言っているけっこう厳しい本である。

 誰しもが殿様や領主に従属し、「個人」が存在しない封建社会と違って、近代社会は「個人」によって成り立つ。個人として生きるには、様々な角度から物事を観て真実を見極める力が必要であり、人生の生殺与奪を上様や殿様が握っていた時代と違って、自らの人生は自らのものとなる。自ら考えを表明し、行動し、責任を取らねばならない。そういう近代市民社会の厳しい現実を明治初期の子供に教えるために書かれたのが『学問のすゝめ』だった。

 同じく僕にとって「個人」として生きるヒントを与えてくれたのは、経済学部3年生の時に原書で読まされた、近代経済学の父アダム・スミスによる最初の主著『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments, 1759)である。スコットランド啓蒙思想を代表するヒュームの『人性論』に続き世に問われたこの本は、産業革命前夜の、まさしく時代が「近代」を迎えようとしている時代、すなわち生まれたての資本主義社会を生きる人間類型を示している。スミスは本書において、市民社会を生きる人間の本質を「同感」(「同情」とも。つまりSympathy)であると喝破している。自由な独立した個人はそれぞれ他者に対しての「同感」の感情を持つ。そして個人の頭の中には「公平な第三の傍観者」(impartial spectator)がいて、自分の行動が「適宜性」(propriety, 言うなれば「ちょうどよさ」だろうか)の中に収まるように行動する。基本的に人間は自分の欲求に従い、自分の効用(満足度)を最大化したいものだけれど、こうした「同感」や「適宜性」の感覚によって、極端な行動や自分勝手な行動に至らず、個人として生きながら秩序ある市民社会を構成するようになる、ということだろう。

『学問のすゝめ』も『道徳感情論』も、書かれた時期は1世紀以上離れているけれど、言っていることはかなり似ている。両著作とも、「近代の資本主義社会を生きる個人のあり方」を示したハウツー本である。

「社会」と「世間」は混同されがちだけれど、徹底的に違うのはそこに「個人」がいるかいないか、であると思う。「世間体が悪い」とか「世間様に顔向けができない」とか口にすることが多い日本人が没個性となりがちで、個人の意見を自ら封殺してしまうのは、一見するとスミスが言うところの「適宜性」に似ているように見えるけれど、まったく異なると思う。スミスの言う「同感」や「適宜性」は、あくまでも個人が科学的に考えた自らの考えや主張をした上で、異なる個人と意見を交わし、その上で自分と異なる意見や変わった見方も尊重しあって、「社会」を成熟させてゆく「個人」の行動だ。福沢は『学問のすゝめ』において「人間交際」の重要性も説いているが、これも独立した個人が互いに意見を交わした上で、相互に尊重し合う近代的個人同士の付き合いを前提としている。「世間体」を気にして「世間」の空気に従って行動するのは、「上様」や「殿様」あるいは「王様」や「領主様」が「世間様」に変わっただけで、個人として生きることを、そして近代的個人として与えられている「自由」を放棄している。

 さて、僕はいま、4年ぶりに「バイロイト音楽祭」(Bayreuther Festspiele)に来ている。ワーグナーの聖地と言われるドイツ・バイエルン州のバイロイトで開催される、ワグネリアンにとっては特別な音楽祭だ。

 この音楽祭では「ニーベルングの指環」4部作をはじめ、「さまよえるオランダ人」以降に作曲されたワーグナー作品だけが上演されるが、それぞれオリジナルの楽譜と台本に従いながらも、かなり過激な読み替えで社会性を孕ませた、言うなれば相当「攻めた」演出でも知られている。これまでに10回以上この音楽祭に来ているけれど、観客全員が拍手喝采ということは少なくて、ブーイングとスタンディング・オベーションが入り交じることのほうが多い。「万人受け」するような無難な演出の作品は、ここ数年に関して言えば観た記憶がない。

 日本でオペラを観ていると、カーテンコールでブーイングを聞くことはほとんどない。「みんなが拍手しているのに自分一人ブーイングなんて」という思いが先立つ気持ちはわかるし、僕も日本で観劇していると「うーん微妙じゃね?」と思った演出や演技でも、なんとなく周りに合わせて拍手している。いっぽう、バイロイトを始めザルツブルク音楽祭やウィーン国立歌劇場、バイエルン州立歌劇場などでのオペラ公演では、激しいブーイングにたびたび遭遇する。カーテンコールで僕が拍手して「ブラボー!」と叫んでいると、隣の観客がブーイングを浴びせている。そして「今の演出のどこがいいと思ったのかい?」とか「君はあのテノールの表現力をいいと思ったんだね?」とか話をふっかけられ、そこから議論が始まったりする。

 今日は2019年初演版の「タンホイザー」を観劇して来た。ビデオアートが駆使され、黒人のドラァグクイーンや小人症の俳優などが登場するかなりアバンギャルドな演出だ。1幕目の終幕後、隣席のイギリス人のおじさんから「前に日本でオペラを観た時、みんなが拍手して誰も語り合っていなかったんだ。もし君が日本人なら、日本人にこうして感想を訊ねて意見を訊くのは迷惑かい?」と問われた。僕は「ああ、たしかに日本ではそういうことは少ないかも……。でも僕は全然迷惑じゃないですよ」と答え、そこから今日の演出についての賛否両論の議論が交わし合った。かなり攻めた演出の今回の「タンホイザー」、僕はかなり好きだった。でもおじさんの方は色々違う意見を持っていた。おじさんはイギリス人で、異性愛者で、3人の娘を持っている。僕は日本人で同性愛者で、結婚すらできない。年齢も立場も全然違う。そういう2人がそれぞれ意見をぶつけ、議論する。でも、最後には「君とは他の演目でも席が近かったよね。君の意見はとても面白い。また明日会おう」と笑顔で別れる。僕も「こちらこそ。また明日も議論しましょう」と応えて握手する。

 13歳で出会った『学問のすゝめ』と学部生時代に巡り合った『道徳感情論』の2冊は、どちらも文学に関する本ではない。経済や経営について直接的に説いているわけでもない。でも、小説を書いている時や歌を詠んでいる時、あるいは経営者として大きな判断を下す時。そしてただひとりのオペラ好きな日本人として歌劇場に座っている時や、冬のゲレンデのテレインパークで仲間たちとトリックを競い合っている時。首都高を運転していて、ややこしいジャンクションで譲ったり譲られたりする時――。あらゆる状況において僕の行動や言動の指針になっているのは、この2冊であるような気がしてならない。