もしもし、から呼び覚まされる思い出はあなたにもあるはずだ。しかし、そのドラマの鮮やかさでこの人の右に出る人はそうはいまい。これまで漫画で断片的に描いてきた電話をめぐるエピソードを、漫画家になるまでの生い立ちと絡めて貫いた。初の文章エッセーだ。
宮崎育ち。電電公社(NTT)勤めの父を持つことからして因縁めいている。父の電話コレクションや電話帳に囲まれ、漫画をむさぼり読み絵を描きまくる少女だった。
本書の山場の一つが、高校時代、バルセロナ五輪マラソンで銀メダルの森下広一選手に恋した話。五輪後の地方大会から宮崎に戻ることを知り、存在しない新聞部の取材を装い所属先の旭化成へ電話。到着時間を聞き出して空港で待ち構えた。
「森下さんが公衆電話でタウンページをめくり始めたのを見てダッシュでかけつけて、『私、電話帳引きます! 父がNTTなんで! 旭化成ですよね?』って、ばーっとめくって数秒で差し出した。森下さん、会社に連絡してバスで帰りました。これで卒業したらお嫁さんになれるって思ってましたね」
ほどなく、森下選手は結婚を発表し、大失恋となったのだが。
その後、父と同じNTTに就職し、漫画家デビューも一本の電話がきっかけとなった。人生の節目に電話あり。どんな修羅場も独自の観察眼で笑いとペーソスに転化してしまう才能が、文章でも炸裂(さくれつ)している。
消えゆくアナログ電話の思い出でしんみりさせたと思いきや、スマホ向け漫画の制作にも取り組んでいると明かす。「私、携帯を第1世代から売って、どんどん生活が便利になったのを見てきたので身をもってわかってるんです。電話も漫画も昔に戻らないから、ちょっとでも若いうちに波に乗らないとダメって」。納得。(文・木村尚貴 写真・山本佳代子)=朝日新聞2023年8月12日掲載