1. HOME
  2. コラム
  3. 中江有里の「開け!本の扉。ときどき野球も」
  4. 緊急入院。夢でも気になるタイガースの試合結果に「アルジャーノンに花束を」が重なった夜 中江有里の「開け!野球の扉」 #5

緊急入院。夢でも気になるタイガースの試合結果に「アルジャーノンに花束を」が重なった夜 中江有里の「開け!野球の扉」 #5

(Photo by Ari Hatsuzawa)

 7月28日深夜、わたしは病院で天井を見つめていた。

 その日の午後、突然自宅で腹痛に襲われた。両手が震えだし、視界が暗くなる。痛みで体が動かず、スマートフォンに手が届かない。
 「このまま死んでしまうかも」。そんな考えがよぎる。
 痛みの波が少し引いた隙に、匍匐前進でスマホを掴んだ。即、家族に連絡。救急車を呼んだ。

 検査の結果、左腎臓の良性腫瘍が破裂したらしい。そのまま緊急手術、入院となった。
 「週明けまでベッドから動かず、安静にしていてください」
 医師からそう言われたが、ひとりでは寝返りも打てない状態だ。両手を管につながれたまま、見慣れぬ天井を見上げるしかなかった。
 この日、阪神タイガースは広島カープとの首位攻防戦3連戦初日。しかし1秒も見られず、硬いベッドでうつらうつらしていた。
 その間に、短く浅い夢を数えきれないほど見た。
 ほぼ野球の夢だ。夢の中の阪神タイガースは、どうやら負けている。

 ようやく長い夜が明けた。食欲はなく、痛みと吐き気が不定期に襲ってくる。小さな文字を見ると気持ち悪くなるので、スマートフォンも見てない。
 午後3時、面会時間に家族が会いに来た。わたしは開口一番、訊いた。
 「昨日、阪神勝った?」
 「勝ったよ。7-2」
 ホッとした。夢でよかった。

 入院第2夜。ほとんど手を付けないまま夕飯を終え、また天井を見ていた。内臓を締め上げるような痛みを紛らわせようと2日ぶりに枕元のスマホを手にして、DAZNアプリを立ち上げた。甲子園での広島戦は4回表。青柳投手が投げている。
 痛みと寝たきりの態勢が辛く、長く画面を見ていられないので、ほとんど音を聞いていた。9回までなんとか耐えたが、試合は2-2のまま延長戦へ。
 ここでギブアップし、アプリを閉じて、目を閉じた。
 そして強い痛みで夜中に目覚めた。再び、前日同様の短く浅い夢を繰り返す。
 また阪神タイガースが試合をしている。
 加治屋投手、岩貞投手、岩崎投手、浜地投手、桐敷投手、島本投手、リリーフ陣の顔が走馬灯のように流れていく。試合内容はよくわからないけど、さっきの延長戦がDAZNからわたしの夢へ転送されているかのようだ。
 そんなに気になるなら、結果をチェックするか? いや、そんな元気はない。
 わたしは寝たいのだ。心の底からぐっすりと寝たいのだ。
 こんなにこんなに辛いのに、寝ても覚めてもなぜ阪神のことが頭から離れないのか?

 そして翌日、面会時間にやってきた家族に試合結果を聞いた。
 「引き分け、ドロー」
 ホッとした。阪神タイガース、負けなかった!

(Photo by Ari Hatsuzawa)

 「アルジャーノンに花束を」の主人公は、32歳にして幼児並みの知能しかないチャーリー。ある手術をうけたことで知能がアップし、これまで知らなかった喜びや孤独を知ることになる。
 一方、先に同じ手術を受けたネズミのアルジャーノンの知能が下降していく。自分も同じ道をたどることを知るチャーリー。
 何も知らない=白紙状態のチャーリーはさまざまな情報や感情を知り、やがて元通りの白紙へと戻っていく。
 昔、この本を読んで、せっかく手に入れた知能や記憶もなくしていくのが無念で、悲しく思った。だんだんと知能が元に戻っていくチャーリーは、最後にアルジャーノンの墓へ花束を供えるようにメッセージを記す。
 彼は手に入れたいろんなものをなくしたけど、自分と同じ運命にあるアルジャーノンを慈しむ心を残していった。

(Photo by Ari Hatsuzawa)

 野球は勝ち負けを競う。引き分けも一つの結果だ。
 夢にまで見た試合が引き分けだったと聞いた時、ざわついた心がスッと静まった。
 なぜだろう。
 そして「アルジャーノンに花束を」を思い出した。多くのものを得て、そのすべてをなくしたチャーリーは勝者といえないけど、決して敗者ではない。彼が生きた痕跡は多くの人の心をとらえた。意味ある引き分けの人生だ。

 突然の入院手術、痛く苦しい思いをし、退院したが、まだ元の状態に戻りきってはいない。
 楽しみにしていたライブも夏の旅行も行けず、仕事も先送りしたり、お断りしたりしたものもある。病気は勝ち負けをつけられるものもでないけど、失ったものが多いと、なんとなく負けた気がする。
 しかし勝てなくても、せめて引き分けに持ち込みたい。
 以前と同じ状態になるまで、自分の体をいたわりながら、前を向いてすすみたい。AREに向けて走る阪神タイガースを応援するのもそのひとつ。

 ところで今回、痛感したのは野球観戦に費やすエネルギー量だ。試合を見るのがこんなに疲れるものだとは知らなかった。
 3日間の移動禁止が解け、痛みが和らぎはじめてから退院まで約1週間、病室で阪神タイガースの試合を見続けた。疲れは感じるけど、同時に元気ももらえる。
 入れ替わり立ち代わりに部屋へやってくる看護師さんからそろって「タイガース、お好きなんですね」と声を掛けられた。
 勤務中の看護師さんには気恥ずかしく、答えられなかったのでここで答えます。
 「阪神タイガースは、生きる支えです」