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森見登美彦「シャーロック・ホームズの凱旋」 日本人作家が書いたホームズ・パロディ小説の最高傑作 書評家・杉江松恋「日出る処のニューヒット」(第11回)

©GettyImages

小説にしかできない企み

 森見登美彦に平伏するしかない。
 決して見くびっていたわけではないのだが、ここまで凄いとは。新作『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)を読んで身震いするほどに驚いた。技巧のかたまりであり、小説にしかできない企みを悠揚迫らざる筆致で描いた懐の大きい作品であり、自身のファンも、そうではない人も、果ては森見登美彦がシャーロック・ホームズとはいかなることか、と訝しんで本を手に取る一見の客をも十二分に満足させてしまう恐るべき1作である。日本人作家が書いたホームズ・パロディ小説の最高傑作、と言ってしまいたい。

 本作は文芸誌『小説BOC』に2016年から18年にかけて連載されたものが原型で、全面改稿を経てこのたび単行本化された。森見といえば京都を舞台とした青春小説の印象が強いという読者も多いだろう。03年に第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した『太陽の塔』(新潮文庫)がデビュー作だが、第2作『四畳半神話大系』(角川文庫)で狭い個人空間に逼塞して暮らす主人公の妄想的な日々を書いて注目され、第4作『夜は短し歩けよ乙女』(角川文庫)でその人気を不動のものとした。初期作品の舞台は京都であり、誰もが知る街をマジカルな空間に変化させて描いた。その幻想性と、万年床にもぐりこんで世界から目を背けるような生き方をしている主人公の取り合わせが他にない特徴として認識され、多くの読者に愛される作家になったのである。

京都舞台に『夜は短し恋せよ乙女』の構造に変換

『シャーロック・ホームズの凱旋』は、森見によるセルフ・パロディともとれる始まり方をする小説だ。コナン・ドイルが19世紀末から20世紀にかけて発表した探偵・シャーロック・ホームズの物語は、ヴィクトリア朝ロンドンを舞台としている。だが『凱旋』の舞台は、ヴィクトリア朝はヴィクトリア朝でも京都なのである。登場人物の名は原典の通りイギリス人のそれなのだが、何の説明もなく地名のみが京都に置き換えられている。ホームズの住所もベーカー街221Bではなく寺町通221Bである。新たな幻想都市・京都だ。
 物語はホームズが深刻なスランプに陥り、探偵としては開店休業の状態から始まる。友人のために気を揉むワトソン医師は「青竹踏み健康法から漢方薬まで、思いつくことは片端から試み」「毎日弁財天に祈願し、深山に分け入って滝に打たれ、有馬温泉へ湯治にも」行く。つまり役に立つことは何もせず、ホームズは負け犬が背中を丸めて傷を舐めるような、どうしようもない状態に落ち込んでいくのである。実に森見的な主人公だ。

 情けない男たちに対して生気に満ち溢れているのは女性たちである。若きアイリーン・アドラーがホームズの向こうを張って探偵事務所を開業し、あっという間に名声を得ていく。アイリーン以上に印象的なのは、ワトソンが『四人の署名』事件で知り合って結婚したメアリである。彼女があまりにも生命力に溢れているために、ワトソンは街中で心惹かれる存在に遭遇すると佇まいの中に妻の片鱗を見出すようになり、その現象を「妻の偏在」と呼ぶようになる。ヒロインが遍く京都に広がって街を覆い尽くすというのは『夜は短し恋せよ乙女』そのものではないか。このようにコナン・ドイルのホームズ譚が森見登美彦小説としか言いようのないものに変換されているのである。

ホームズ譚の本質を抽出し活用

 本作で目を惹くのはサンプリング、つまりコナン・ドイルの原典からホームズ譚の特徴を最もよく表した要素を抜き出し、パッチワーク、すなわちつぎはぎによって本文を構成していくという技法である。これが巧みであるために、明らかに森見の文体で書かれている小説を元のホームズ譚と抵抗なく重ね合わせて読めてしまう。舞台がロンドンではなくて京都なのにまったく違和感がないのはこのためだ。
 一例をあげる。第1章「ジェイムズ・モリアーティの彷徨」には“妻のメアリはシャーロック・ホームズのことをつねに「あの人」と呼ぶ”という1文がある。わざわざかぎかっこつきで「あの人」と書かれているのは、この1語が原典からサンプリングされているからである。出典は第1短篇集『シャーロック・ホームズの冒険』の第1話「ボヘミアの醜聞」だ。
“シャーロック・ホームズにとって、彼女はつねに「あの女性(ひと)」である。”(日暮雅通訳)
「あの女性」は原文ではthe womanである。性別こそ違うが、森見の文章が「ボヘミアの醜聞」を意識した用語であることは明らかだ。同作はホームズにとって、知的闘争で唯一自分に先んじた女性、アイリーン・アドラー唯一の登場作だからである。
『凱旋』の随所に、このようなホームズ譚の要となるような表現・文章が置かれている。その抜き出し加減も程よく、パロディ作家が陥りがちな、いかに自分が原典の知識を有しているかというひけらかしにはなっていないのである。それでいて、くすりとするような笑いも仕込まれている。

 もうひとつ例を。やはり第1章で、ホームズと同じ寺町通221Bの下宿人となった老人が、ホームズの下手なヴァイオリンが迷惑であると文句を言いにくる場面がある。
“「十月十五日の夜、貴君は私の邪魔をしてくれた。その二日後の十月十七日の深夜、またしても私の邪魔をした。さらに二十日には貴君のおかげで貴重な睡眠が失われ、二十一日にはまったく仕事が手につかなかった。この下宿屋に越してきてからというもの、貴君の絶えざる妨害によって、私の研究は遅れに遅れている。まったく看過しがたい損失だ」”
 この出典は、第2短篇集『シャーロック・ホームズの回想』の掉尾を飾る「最後の事件」である。ホームズを敵視する犯罪王・モリアーティ教授がベーカー街221Bを訪れてつきつけた最後通牒の台詞だ。
「きみは一月四日、わたしにちょっかいを出した。二十三日、わたしのじゃまをした。二月半ばまで、きみのおかげでずいぶん迷惑をした。三月末、わたしの計画は台無しになった。そしていま、四月末になって、きみに絶えずじゃまされるせいで、わたしの自由が現実に奪われかねないという危険にさらされている。どうにも我慢できないところにさしかかっているのだ」(日暮雅通訳)
 このくだりが可笑しいのは、ホームズを訪ねてやってきた老人がやはりモリアーティ教授だからである。犯罪王の恐るべき警告が、気難しい隣人の苦情に置きかえられている。ホームズ譚最大のクライマックスを四畳半レベルの日常物語に矮小化してしまうというギャグだ。アイリーン・アドラーと共に、モリアーティ教授も本作の重要な登場人物となる。

「パロディ」超える真価

 あらすじを細かく書くのは遠慮しておこう。原典を知っている人はパッチワークの妙を、作者のファンは森見らしさをそれぞれ味わいながら読んでいけばいい。まったく違う関心を抱いて進む2通りの読者は中盤で合流する。小説の最大の謎、なぜヴィクトリア朝ロンドンではなく京都なのか、という疑問に対する回答がそこで呈示されるのである。驚くはずだ。世界が天の中央から割け、裏返って自分を飲みこんでくるような感覚を私は味わった。
 そこで見えてくるものが何かは当然伏せるが、名探偵シャーロック・ホームズの伝記をしたためることによって探偵小説作家となったジョン・H・ワトソンが、小説にとっての重要な軸になっているということだけは書いてもいいだろう。自分はなぜ探偵小説を書くのか、というワトソンの自問を通じて読者は、物語はなぜ書かれるのか、現実の似姿であり、時にはそれと同等の質量を持つこともある虚構とは何であろうかと思いを馳せることになる。

 森見作品のセルフ・パロディということで言えば、本作の後半部は作者畢生の大作『熱帯』(文春文庫)を想起させる。『夜は短し歩けよ乙女』に始まって『熱帯』に行き着く物語と言うべきか。小説が作者によって書かれるものであるということを強く意識させられる小説でもある。物語の終盤に、すべての物語を紡ぎ出す作者の肖像が、背中を丸めて机に向かう姿として幻視される場面がある。その姿が森見自身のものと重なって見えて、私はうっかり涙腺が緩みそうになった。本当によく書き続けてきたものだ。

『シャーロック・ホームズの凱旋』は直木賞候補に上がるべきだろう。それに価する作品である。ただ心配なのは、直木賞の選考委員には前回候補になった『熱帯』の真価を理解できず、落としてしまった前科があることだ。傑作すぎて、直木賞では役不足だったようである。『シャーロック・ホームズの凱旋』も世界で最も有名な名探偵物語のパロディという外見をしているだけに誤読される可能性はある。器ばかり見ていないで、中身を鑑賞してもらえれば、と思うのだがどうだろうか。本作が候補となり、受賞するようであれば、私は直木賞にもおみそれしましたと平伏して詫びるであろう。