強い兄をもつ弟が、どんなふうに大きくなったか
――吉永(よしなが)家のメンバーは、両親と兄たくや、弟こうた、そして妹ゆり(と猫2匹と亀1匹)。絵本のイラストを見ると、まさにご自身が育った一家のようですが……。絵本を作ったきっかけは?
僕らは北九州の下町育ちです。2歳上の兄はちょっと目立っていて……いわゆる「不良」というかヤンキーだったんですね。その後、南米へ渡ってエクアドルのバナナ園で働いたり、ブラジルで「サンパウロ新聞」社会部の記者になり、実体験を雑誌や本に書いたことから、テレビに出演したりしたので「よしながこうたくの兄は激しい人らしい」と一部の人には知られていて。そんな強い兄を持つ弟がどんなふうに大きくなったのか、絵本に描いてほしいと言われて描いたのが『ぼくの兄ちゃん』です。
――『ぼくの兄ちゃん』では兄のたくやが、天井の模様をこわがって、弟のこうたに模様を描き変えさせます。吉永家の実話でしょうか?
天井に絵を描いたのはフィクションですが、兄がこわがりで「オレが寝るまで、お前起きとけ」は実話です。「子守唄歌え」とか、「オレが寝たら、電気消しとけよ」がほぼ毎晩。兄より先に寝ようものなら「起きろ!」と叩き起こされる(笑)。
兄においていかれそうになって「なんで兄ちゃんはいつも僕のいうことを聞いてくれないんだ」と思ったのも実話です。絵本とシチュエーションは違うけど、いとこの家に行った帰りのことです。高速バスを降りると迎えに来ているはずの親がいなくて、あたりは真っ暗。小3の兄は「おいてくぞ」とどんどん先へ行ってしまう。小1の僕は方向が違うと思うのに聞いてくれなくて……迷子になりわんわん泣いているところを警察に保護されました。交番のテレビで「8時だヨ!全員集合」をやっていたのを覚えています。
兄弟ってきれいごとじゃない
――弟に命令して「弟なんだからあたりまえだろ」と言うたくや。「すきで弟になったんじゃないもん」と言うこうた。兄弟の言い分を聞くのは大変そうです。
兄にとっては弟が生まれたときから子分ができたようなもん。弟がどんなに理不尽さを訴えても、そのモヤモヤは両親には伝わらないですよ。親には子ども同士の小競り合いなんてかわいいだけですから。
――兄ちゃんのせいでお母さんに怒られ、ぼくの味方は誰もいない。「おばけさん、こんな兄ちゃんなんかつれていってください!」と叫ぶと、オバケが現れます。
早く兄と離れたいと死ぬほど思っていました。「つーれてーくよー」と出てくるオバケのあっくんは、兄のヤンキー仲間がモデルなのでリーゼントに短ランです(笑)。
――兄弟2人ともオバケに連れていかれますが、オバケの世界に馴染んだたくやは、更に暗い方へどんどん行ってしまいます。こうたが取り残され泣いていると「こうたをいじめるな!」と戻って来ますね。
当初の案は、弟こうたは1人でなんとか脱出し、兄たくやはオバケになって「こっちの世界の方がおもしろいのに、なんで来ない?」と会いにくるストーリーでした。編集者さんに「兄は戻ってこないと思います」「オバケたちと向こうでゲラゲラ笑ってます」と主張したんですけどね。編集者の「お兄さんは必ず助けに来ます!」という言葉に負けました(笑)。
最後は、無事に2人で家に帰れたと思ったら、たくやと仲良くなったオバケが夜な夜な遊びに来て起こされる……。「神様、ぼくはいったいいつまで兄ちゃんの弟なんでしょうか……」これは僕の心の叫びです!
子どもの毎日はまさにサバイバル
――『ぼくの兄ちゃん』を描くにあたり、お兄さんに小さい頃の話を聞きましたか。
あえて聞かなかった気がします。兄側の気持ちを聞くと、弟側の恨みが薄くなっちゃう気がして。
兄は小さい頃から番長気質というか、ガキ大将で。絵を描くのが好きな僕とは、性格が真逆でした。忍者の修行で屋根から飛び降りたら、ゴミ袋の五寸釘が刺さるなど……いつも血を流しているんですよ。“昭和の親父”の父も「男の子はしょうがない」という感じ。24歳で兄を産んだ母は、まだ若かったこともあるでしょうけど一生懸命で、よく泣いていました。そんな母と兄を見て、僕は危険にはどんどん近づかなくなるわけです。
当時住んでいたところは北九州でも治安が良くなくて、両親は地元の派手な不良グループに入らせまいとして2回引っ越します。でも兄は行く先々でテリトリーが広がるばかり(笑)。引っ越しに付き合わされる僕を不憫に思った母が、6年生後半は前の学校にわざわざ毎朝車で送ってくれました。
――強いきょうだいがいると、その子に振り回されますね。
僕は兄がワーワー騒いでいると、騒げなかった。「あんたは妹の手本になりなさい」と言われたから、兄を反面教師にしたいい子だったんでしょうね。
でも自分も40代になり、読み聞かせやライブペインティングで子どもとの付き合いが深くなってくると、今読んでも『ぼくの兄ちゃん』には、兄弟の関係性のおもしろさ、かわいさがよく出ているなと。初版から11年経ちましたが、復刊であらためて読んでみて、「兄弟って大変だよね」と自分の絵本ながらニヤニヤしました。
――子どもの毎日もサバイバルだなと思います。
子どもとして生きるのは大変です。大人になり「あの頃、よく生きのびたな」って、みんな思っていると思いますよ。どの家もまともじゃないというか……外からわからないだけでどの家庭も何かしらの問題を抱えているものだと思います。子どもの大変さは、誰もわかってくれないんですよ。
実は、父方のばあちゃんは浄土真宗の寺出身で、なぜか僕だけ、毎朝ばあちゃんに暗い畳の部屋でお経を読まされました。無駄な殺生はしない、物を粗末にしない、悪いことはお天道さまが見ていると諭される。昔の人は信心深いですね。じいちゃんなんて「蚊も血を吸わないと生きていけない」と、蚊さえ叩かないんだから。今思えばなぜ兄は一緒にお経を読まされなかったのか……。兄はおそらく逃げていたんだと思います。
でも兄も10代の頃からお年寄りには優しかったんですよ。金髪リーゼントの兄とバスに乗ったとき、1つだけ席があいていて「兄ちゃん、座りいよ」と言うと「いや、座らん」と。なぜかと聞くと「ばあちゃんとか乗ってきたら、気にかかって座ってられんやろうが」という謎の優しさがあるんですね。
――兄と弟の関係性は大人になっても変わりませんか?
弟の都合お構いなしなのは、大人になっても変わらないです。『給食番長』出版後、忙しくなって連日夜中まで絵を描いていたとき、ブラジルから兄がサンバにハマって帰ってきて。朝4時から「おっはよー!」とタンバリンを叩くんです。「おい、オレ昨日より上手くなっとらん!?」って。1日くらいで変わらないって言っているのに「寝とろうが! ちゃんと聞けって!」と……朝4時ですよ? こうして僕は兄のハマるものが次々嫌いになるんですよ(笑)。
でも、あちこちで修羅場をくぐってきているからトラブルには強くて、困ったときは頼りにしています。実は『給食番長』シリーズの博多弁翻訳もずいぶん兄に助けてもらっています。
今、兄は、福岡市の繁華街・親不孝通で町内会長を務めています。樹木を管理して見通しをよくしたり、落書きを消して街を清掃したり。昔、夜中に落書きをしていた人たちが、今は朝から率先して落書きを消しているんですから、人生っておもしろいですよね(笑)。
自分の道は、自分で切り開くしかない
――よしながこうたくさん自身も、個性的な絵で、絵本作家の道を歩んできました。
兄がガンガンわが道を進むのを見て、結局、自分の道を自分で切り開くしかないと、いつからか思うようになりました。本当は自分も目立ちたい、人と違うことをやりたいという思いがあったんですよ。何かやるなら得意な絵でやるしかないと。
絵本の世界で、自分らしい表現を作るために「戦わねば」みたいな熱血は、親父や兄貴譲りな気はします。かわいいさっぱりした絵じゃなく、ますます濃く、激しく……(笑)。世の中と違う方向へ行こうとする反発心、反抗心ですね。初めての作品『給食番長』が売れたことは救いでした。あの本を子どもたちに読んでもらえなければ、とても絵描き業は成り立たなかったと思います。
――赤、緑、黄などの色の組み合わせがパワフルですね。
小学生のときから父に南米に連れて行かれているので、色彩感覚はもしかしたら影響を受けているかもしれません。
父は一時期南米移住を志していて、現地に友人がいたんですよ。大学在学中、南米アマゾン開拓に憧れ、学生移住連盟の南米実習調査団の一員として船で2カ月かけて海を渡っていて、仲間がのちに何人もブラジルに移住したのです。父自身も真剣に移住するつもりだったけれど、コーヒー豆の卸をしていた祖父の事業が傾き、急に会社を継ぐことになり、多額の借金を働き詰めで返したらしいです。
福岡では有名な働きマンでずっと独身だったそうですが、当時は36歳まで結婚しない社長なんて変人ですからね。接待で訪れた料亭で「どんな人なら結婚する気になるのか」と接待相手に尋ねられ、さっき給仕してくれた女性みたいな人ですかね、と答えたその女性が母。料亭の娘さんで、すぐ家に電話がいって……。当時母は22、23歳くらいで店に入ってきた父を見て「この人と結婚するかも」と思ったというから、何か感じたんでしょうね。
受け継いだ“熱さ”を胸に絵描き道を突き進む
――お父さんが南米に縁があったんですね。
父は社長業の傍ら、寄付金を募って南米に小学校を建てたり、アマゾンの植林活動をしたりと、自らのお金も注ぎ込んで慈善活動をしていました。
だから母が結婚したら、父の家があまりにボロボロでびっくりしたらしいです。海に近い工業地帯の築100年の木造家は、ネズミはもちろん、イタチも出て台所で作りかけの料理を食い荒らす。「なぜ家がこんな状態なのか」と聞くと、父は「食べ物も家もある、服も車もある」「余った分は人にあげて、何の問題があるんだ」と。それを聞いた母は「この人は本気なんだ」と感銘を受けたそうです(笑)。
僕が10歳のとき、学校を1カ月休み、アマゾンの日本人移民の記念式典に参加させられました。そのとき、トタン屋根のバラックが見渡す限り広がるような、ブラジルの貧民街をはじめて見ました。子どものスリが多いし、ゴミ収集車も来ない地域です。日本とは全く違う貧困を知りました。
15歳のときはペルーの小学校の開校式に連れて行かれました。「お前が親善大使だ」と言われて現地の子たちと交流しました。リャマの世話や水汲みなど、3歳くらいから働いている子たちだから、握手するとみんな手がゴツゴツなんですよ。
アヤワスカ(幻覚性植物、ペルーの国家文化遺産)を使用するシャーマン(治療師)の家を訪問し、そこに絵を習いに来る子たちと会いました。僕が日本で描いた風景画と、ジャングルの中に精霊が描かれた絵を交換しました。みんなむちゃくちゃ絵が上手いんですよ。僕が通う美術系の専門学校生たちよりずっと絵に純粋で、すごい絵を描く子たちが「日本に行きたい」と目を輝かせていました。でもこんなに絵が上手くてもなかなかここを出られないのかな……と不条理を感じました。そのとき“子どもたちにつながる仕事”をしようと決めた気がします。根底には、あのときのあの子たちの何か力になれたらな、という思いがあります。
父は5年前に亡くなりましたが、根っこには「世界を見ろ」という父の教えがずっとあったと思います。そして最後は人のためになる仕事をしないといけない、と。すべての人に役割があるように、自分には自分の担うべき役割がある。色々な家庭環境、生活環境で生きている子たちの、巡り巡ってどこかで力になればいいなと思いながら絵描き業を続けています。