「戦争志向のライターになりたくなかった」
――夫となるピート・ハミルさんと初めて会ったのは1984年3月6日、と書かれています。出会った日付も覚えているんですね。
若いころから能率手帳をつけていて、その日に起こったことなどを何でも記録しているんです。インタビューのために東京で初めてピートに会った日付もそれでわかる。彼と会った翌日、私は「ニューズウィーク」日本版の創刊・発行準備のためニューヨークに赴任しないか、というオファーを受けました。それが1日違いだったことも、手帳で確認できました。
――インタビューではベトナム戦争の話が印象に残ったそうですね。
私はベトナム戦争報道で米ピュリツァー賞を受賞した日本人カメラマンについて書いた自著『ライカでグッドバイ――カメラマン沢田教一が撃たれた日』を持参しました。ピートにベトナム戦争について聞くと、1966年と67年の2回、計10カ月間、特派員として従軍したと答えました。ピートは「戦争志向のライターになりたくなかった。死者の出るような激しい戦闘を取材して、夕方にサイゴンに帰るとホテルで豪勢なディナーにありつく。そんな毎日に耐えられなかった」と語りました。従軍の経験を雄弁に語るジャーナリストが多かったなかで、戦争報道に後ろめたいものを感じたというピートの言葉に驚きました。
インタビュー中「大地が動いた」
――インタビューの最中に地震があったのですね。3月6日の朝日新聞夕刊を見ると、6日午前11時18分ごろ太平洋上を震源とする地震があり、東京は震度4だったとあります。
ホテルのラウンジで話を聞いていたとき、けっこう揺れたんです。結婚した後、「どうやってフキコと知り合ったのか」と知人に聞かれるたび、ピートは「なんと大地が動いたんだよ。だからぼくはフキコを抱えて外に連れ出し、大丈夫だといって安心させたんだ」と答えていました。
でも「抱えて外に連れ出した」なんて、とんでもない。実際は、揺れが収まるのを待ってインタビューを続けました。インタビューが終わった後、外に出て写真を撮りました。それを彼がドラマチックな出会いの話に作りかえて、方々で語っていたのです。
「大地が動いた」という言葉は、ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』に出てきます。主人公の米国人が、スペイン内戦で若い娘と愛し合ったときに「大地が下からすべり出し、二人は宙に浮かんだ」という有名な場面です。
――インタビュー中に地震があったというだけでも、十分にドラマチックに思えます。
私は硬派のノンフィクションを多く書いてきたので、自分のプライベートなことを書くのは苦手なんです。でも編集者から言われたのは、これまでの作品のように事実を積み重ねて分厚い本にする必要はないと。ピートと私のことだけをエッセーとして書いてほしいということでした。新たに取材する必要はなかった。手帳を読み返したり、写真や彼の遺品を見たりするだけで十分だったのです。
大恋愛でした。1987年に結婚してから、ピートが2020年に亡くなるまで33年。すごく幸せだった。いろんなことがあったけど、一緒にいてほっとする関係でした。彼から十分に愛されたと思うし、私も心から愛しました。
弱者に目配りを忘れない温かさ
――ピート・ハミルさんはジャーナリストですが、事実に基づいた作品も小説のように細やかに叙述するところが特徴的ですね。山田洋次が監督した映画「幸福の黄色いハンカチ」のもとになった「黄色いハンカチ(Going Home)」という作品も、短編ですが深い味わいがあります。
なぜジャーナリストなのに、コラムだけでなくフィクションも書くのか、と聞かれると、彼はよく「事実だけでは書ききれない真実を書きたいからだ。真実を書くために小説の形をとることもあるんだ」と説明していました。
事実といってもどこまで事実かわからない。むしろフィクションの形でないと伝えられないこともある。登場人物に「自分」を投影することで、読者を引き寄せることができるのです。
街で見かけた人々を、そのまま書くだけでなく、ときには想像力を使って物語をふくらませ、そこに真実を書き込む。彼は人が大好きだったのと同時に、本当によく本を読んでいました。亡くなった後、ブルックリンの公共図書館に蔵書1万冊ほどを寄付しました。
――「事実とは何か」という問いは、とくにトランプ政権のとき、大統領が自分を批判するメディアに「フェイクニュース」とのレッテルを貼ったことで焦点が当たりました。
米国社会が分断され、今では何が事実かわからなくなってしまった。かつて炭鉱や工場の労働者は民主党を支持していました。でも経済のグローバル化に伴い、工場は中国などの外国に出て行き、民主党を支持していた労働者の仕事がなくなってしまった。トランプを支持する労働者たちは、民主党に裏切られたと思っているのです。
――ピートさんの文章には、弱者や小さい存在にも目配りを忘れない温かさを感じます。
ジャーナリストとなる原体験として彼がよく語ったのは、「靴底に開いた大きな穴」のエピソードです。彼が入学したのは、富裕層が通うマンハッタンの私立高校でした。彼は成績優秀で、奨学金を得て、ブルックリンの自宅から1時間以上かけて通っていました。履き古した革靴の底には穴があいてしまっていたけれど、貧しい家庭に育った彼は新しい革靴が買えない。穴にボール紙をあてて、靴をはき続けた。でも上級生にはその靴のことであざ笑われた。
貧困ゆえに差別されたことに対する痛みや怒りを、大人になっても忘れず、ジャーナリストとして弱い者の立場の側に立つことが、彼の原点となったのです。
代表作、いつか日本で出したい
――この本はピートさんと結婚していろいろなことがあった……というところまではスラスラと読み進められます。でもピートさんが2011年に病気になって以降は、何度も生死の境をさまよったことがつづられています。だんだん読むのがつらくなって、ページを繰る手が何度も止まりました。85歳で亡くなったのは2020年で、ニューヨークはコロナ禍の最中でしたね。
亡くなったのは2020年8月5日。新型コロナウイルス感染症のため、ニューヨークではピーク時には毎日500人以上が死んでいたころです。ピートは糖尿病などで腎障害を抱え、人工透析を受けていましたから、感染のリスクはとても高かった。
亡くなってからの1年間は、ただ哀(かな)しかった。何を見ても彼を思い出しました。「さびしい」という自分本位の感情とも違う、もっともっと深い悲しみでいっぱいでした。2年目になってようやくまわりのことが見えるようになったころ、ピートについて書かないかといわれました。去年2月ごろから書きはじめて、10月に書き終えました。
――本書は一組の夫婦のラブストーリーであると同時に、ニューヨークに生きた不世出のジャーナリストで作家だったピート・ハミルさんを日本の読者に紹介する本でもありますね。
今後したいことの一つは、ピートの代表作のうちまだ翻訳されていない作品を日本で出すことです。その一つが『Forever』という題の長編歴史小説です。ニューヨークで18世紀から現代まで生き続けた一人の不死身の主人公を通じて、ニューヨークの歴史を描いた作品です。原書はロングセラーになっているので、ぜひ日本語版を出したいと願っています。彼がその初稿を書き終えたのは2001年9月10日でした。
――ニューヨークを襲った同時多発テロ事件の前日ですね。
当時私たちはマンハッタン島南部のトライベッカに住んでいました。飛行機に突っ込まれて崩壊した世界貿易センターのツインタワーから数百メートルしか離れていません。事件が起きた9月11日朝、ピートは現場のすぐ近くにいて、私たちはしばらくお互いを探し回りました。自宅アパート前でやっと再会し、長い間、抱き合いました。
だからピートは「9・11」を目撃してから、さらに1年かけて小説を大幅に書き直すことにしたのです。ラストシーンで、主人公が恋人を探してツインタワーが崩壊した跡地を探し回る場面が出てきます。それは私たちの体験から生まれたものでした。