映画への固定観念に気づかされる
女性の内面世界や女性への暴力というテーマを描いてきたニナ・メンケス監督の最新作「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」(5月10日から全国順次公開)を試写で観る機会があった。映画において“メイル・ゲイズ(male gaze)”はいかに作られるか? というからくりを数多の映画を例に引いて解き明かす作品だ。メイル・ゲイズとは、おもに視覚芸術における男性的な眼差しや見方を指す語。
ヒッチコック、ゴダール、デ・パルマ、ペキンパー、タランティーノ……。「ブレインウォッシュ」は名作を例に挙げながら、視覚言語の構築法を解説する。主体と客体(見る者と見られる者)の差別化、フレーミング(女性のバストの切り取りショットなど)、カメラムーヴメント(体をなぞるようにパンする、スローモーションの導入など)、ライティング(男性は立体的に見せ、女性は平面的で理想化された美を映しだす)、ナラティブポジション(だれの視点から語るか)といった手法・技法が紹介されて興味深い。発売されたばかりの、女性たちの映画総まくりガイド『ウィメンズ・ムービー・ブレックファスト』(降矢聡+吉田夏生編、フィルムアート社)もぜひ読み併せたいところ。「映画史における(作り手としての)女性の不在」という視点が鮮明に意識される。
映画とはこういう撮り方をするものだと思いこんでいた自分の固定観念に気づかされる。女性のキャラクターは性的魅力や母性を浮彫りにされるのが「自然」だと洗脳されていたのだろう。メイル・ゲイズの遍在は映画界の性的暴行や雇用差別(男性が圧倒的多数で女性不在の傾向)とも関連している。
女たちは問題だらけなのか?
ここでジャッキー・フレミングの絵本『問題だらけの女性たち』(松田青子訳、河出書房新社)をちょっと思いだしておこう。それはこんなふうに始まる。
「かつて世界には女性が存在していませんでした。/だから歴史の授業で/女性の偉人について習わないのです。男性は存在し、その多くが天才でした」
本書にはさまざまな哲学者、科学者、作家のお言葉が出てくる。
「女性には2つの役割があり、それは愛情と母性というほほえましいもの」(モーパッサン)
「女性は芸術やほかのいかなる分野においても、/真に優れた、独創的な偉業を/成し遂げることができない」「なぜなら天才の髪型をしていないせい」(ショーペンハウアー)
天才の髪型をしている天才とは、例えばベートーヴェンのことらしい。トンデモ本と思われるだろうが、これは19世紀イギリスで女性がどんな馬鹿ばかしい迷信と偏見に苦しめられたかを、ユーモアと皮肉をこめて描いた諷刺の書だ。1930年代を舞台にした日本の朝ドラ「虎に翼」でも似たようなセリフは出てくる。
現在こんな発言をしたら大問題になるが、この「女は存在しない」というぎょっとするフレーズが繰り返されるのが、市川沙央の芥川賞受賞第1作「オフィーリア23号」(「文學界」5月号)だ。作者の剛腕ぶりが、本作でも堪能できる。
ミソジニストの生まれ変わりを自認
主人公の大学院生・藤井那緒は医師一族に唯一の文系で、強権的な父親とそのミニチュア版のような兄に抑圧され脅かされてきた。ところが、ミソジニスト(女性を蔑視し嫌悪する者)のオットー・ヴァイニンガーの生まれ変わりを自認し、「オットー君」のモットー「女は存在しない」という言葉をAir Dropで無作為送信して、「布教活動」に務めているという。
ヴァイニンガーとは、19世紀オーストリアのハンガリー系ユダヤ人哲学者で、『性と性格』という書をものした後、23歳で命を絶った。自殺した場所は、自らが崇敬したベートーヴェンの終焉の館。そう、天才たる髪型をした天才の寓居である。フレミングの絵本にヴァイニンガーは出てこないものの、彼の思想も参考にしたのかもしれない。
『性と性格』の第一章では、すべての人間は男性的形質と女性的形質を併せ持つと定義されるが、その後はこうした記述であふれている。
「女には存在も本質もない。女は存在しない。非在なのだ」
「女性の天才というのは形容矛盾である。なぜなら天才とは、ひとえに強化され、完璧な発達を遂げ、あまねく意識をもつ男性性にほかならないからだ」
「女は非理論的であるのと同じぐらい非道徳的である。しかし、あらゆる存在は道徳的で理論的なのである。ゆえに、女には存在がない」
AはBをもたない。存在にはBが必要だ。だからAは存在しない。という循環論法にもなっていない理論で、女性が非在の証明になっていないように見えるが、ここでは文言を引くに留める(「女性は存在しない」と述べたラカンとの類似点と相違点についてもここでは触れない)。
なぜオフィーリアなのか?
那緒はジョン・エヴァレット・ミレイの描いたオフィーリアの肖像を長らく自室に飾っていた。ハムレットの愛を失った彼女が川に転落し、白いドレス姿で歌いながら流されていくあの絵だ。オフィーリアは『ハムレット』のヒロインなのに、ハムレットの10分の1もセリフがない。そのため現代では、彼女に声を与える『オフィーリア』という語り直し小説がジェレミー・トラフォードやリサ・クレインらによって書かれ、映画も作られてきた。
では、「オフィーリア23号」はそうした視点の反転をもう一度反転させたミソジニー小説なのだろうか? そうとも言えない。那緒の人物造形には幾重もの捻れがあり、なにも容易に断言できない構造をもつ小説だとは言えるだろう。彼女のミソジニーはなにかの隠れ蓑のように見えたり、擬態に見えて本心の吐露に思えたりする。
那緒はヴァイニンガー布教の一方、「fスタディーズのLGBTQ+講座」も熱心に受講している。他方、こんにちのフェミニズムやポリコレを揶揄し、他の受講生とは「溶けあえない」ことを確認してはほくそみつつ、講座の古株の縫弥乃(ぬみの)という女性と性愛を伴う関係にもある。
ヴァイニンガーと三島由紀夫に共通する自殺を主題に修論を書く予定の那緒を、恋人の劇団主宰者が映画の主役に抜擢。2.26事件で切腹する夫に「お供させていただきとう存じます」と、恭順な妻が自害を共にする三島の「憂国」の翻案映画だ。恋人の和人は那緒を「僕のオフィーリア」と呼ぶ。
那緒が父や兄からの精神的虐待と抑圧の深い傷を抱えながら、男性たちのミソジニー、父権主義、保守思想や嗜虐性と同化して見せようとするのは、なぜだろう? 彼女が心の奥に押し込めているものは見え隠れするが、いきおい噴出するのは終盤近くだ。兄のもとへ出向き、まず「おまえ」と呼ぶのはやめてほしいと言い、父が死んだら骨を踏ませてくれと頼む。
急にどうしたのかと問われると、小学生の女児が「父親が母親を殴っている」と警察に通報したニュースに触れ、「じゃあ、わたしも、通報しなきゃいけなかったのかもしれないって、思った」と言いだすのだ。那緒は自責する。「あの(通報した)女の子みたいになることもできないこのわたしは何だ? オフィーリアのようにあることもできないわたしは何だ?」と。
このペダンティックな小説の核心は、ここにあるのだろう。那緒をめぐる文化資本の高そうな友人知人たちとのやりとりはどこか虚ろで哀しく、それゆえにいたく美しい。那緒は家庭内暴力と正面から向き合い、それを拒絶、告発することができずにいた。向き合えば、父親からのDVから逃れるために自分たち兄妹が母親をスケープゴートにしていたことを認めることになり、自分たちの安全も脅かされることになるからだ。那緒の歪曲したミソジニーはこの捻じれの発露でもあるのだろう。
なぜこの絵が小説に選ばれたか?
那緒は一時期ミレイのオフィーリアを「憎みながらもお守りのように」壁に掲げてきたという。実際、絵画中のオフィーリアの「呆けきった顔」が兄の性暴力から守ってくれたと思えることもあった。あまりに無防備な痴女の姿にぞっとして、攻撃者は去ったのだろうか?
数あるオフィーリアの肖像画からミレイ作がこの小説に(作者にではなく)選ばれたのには――著名であるという以外にも――理由があるのだろう。たとえば、ドラクロワのそれは、ドレスが脱げて乳房が露わになったオフィーリアが恥じらっている構図だし、カバネルの恍惚としたオフィーリアは清純な乙女というより蠱惑的な妖婦のようで、いずれもメイル・ゲイズ的な眼差しが混交している。
一方、ミレイのオフィーリアには二面性があるのではないか。「オフィーリア23号」を読みながらこの絵を見ていると、従容として黄泉へと流されゆく殉教者の受動性のなかに、社会規範に対して傲然と問いかける眼差しがおぼろに見えてくる。呆けきって見られるだけの客体ではなく、狂気を装いながら歌いつづける主体としての意志が迫り出してくる。ラファエル前派を結成したミレイは女性を人間離れして平面的に描くことに抗した。この絵はこの小説に選ばれるべくして選ばれたのだろう。
狂気を装いながら歌いつづける、それが「オフィーリア23号」のヒロインがやろうとしたことだったのではないか。
個人主義社会のバグ
市川沙央は「(抵抗としての)体制派」だと発言しており、アメリカ最高裁判事の最右翼とも言えるエイミー・コーニー・バレットをその「博愛主義」をもって評価する一人だ。バレットはトランプ前大統領によって指名された判事で、伝統的家族観を重んじる敬虔なカトリック信者であり、強硬な中絶反対派である彼女の一票の重さが、あのロー&ウェイド裁判の判決を覆し、中絶禁止法を成立させるのに寄与したとも言われ、リベラル派に著しく恐れられている。
市川はなぜバレットを支持するのか。それは、リプロダクティブ・ライツ(妊娠出産に関わる中絶権も含む選択権)にしろ何にしろ、現代人が「個人」の概念の礎として掲げてきた「自律性」「自由意志」「自己決定権」というものが、自由主義、競争主義、物質主義の高まりとともに、社会制度のなかで”バグ”を起こしていることと関係しているようだ。
その問題を深く突いたのが、芥川賞受賞作『ハンチバック』だった。近現代社会が理想とする「自立した個人」とは結局、壮年の健常者(かつ主に男性)を前提として構築されてきた概念だ。自由意志や自己決定を示せない障害者、弱者、老人、児童(そう、胎児も)の人権はどうなるのかと、市川は作品や発言を通じて問いかけている。障害者差別を絶対的な不正義としながら、たとえば、出生前検査でそれが判明した際の中絶の権利をどう考えたらいいのか。これらの問題については、またべつの機会に書きたい。