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解像度と幸せの輪郭 津村記久子

 去年の今頃に買った観葉植物が、一年を越えて元気でいる。植物をデスクに置いていると気分がましになるので、断続的に買っては育てていたのだが、引っ越してからは置物を買うのが嫌で避けていた。けれども、去年の四月に行った蚤(のみ)の市のイベントで、いいなあ、と思う鉢植えなどをいくつも見てしまって、結局「維持できないかもしれないから一つだけ」と自分に約束して買ってしまったものだった。

 その蚤の市に行くと人生が変わる、と言うと大げさだけれども、友達と出かけてわーわー言いながらいろんな品物を夢中で見ていると、自分が普段自宅で悩んでいることがしょうもなく思えてきて、気持ちが整理できるのだった。ああもうこれだけ楽しいことがあるんだから、あの悩みは捨てていいよな、というような。観葉植物はその蚤の市で買ったものではないけれども、そこへ行ったことで手に入れる気になった物だった。自分に植物を買ってやる代わりに、もう悩むなと釘を刺したのだ。

 植物を買った当時に悩んでいたことのうち、三つは捨てることができたと思う。水挿しした茎が根腐れするなど、拾う悩みもあったけれども、それは納得している。去年の今頃の日録のような物を読み返すと、もうそこにある話題で悩んでいないことに幸せを感じる。

 悩みばかりの中年の生活と比べて、子供の頃は完全に幸せだったかというとそうでもない。部分的には幸せだったが、世界の見え方の解像度が低くて、それはそれで不幸だった。自分の場合は、近所の年上の友達の言いなりだったし、父親の機嫌にいつも左右されていた。「何も知らなくて幸せ」は本当の幸せだとは自分には思えない。子供の頃の自分は「何も知らなくて不安」だった。

 それを考えると、今の友達と蚤の市に行けば必ず元気が出る、ということを知っている自分はずいぶんましだと思う。今日も鉢植えを覗(のぞ)き込んで、よくやった、と植物と自分を労(ねぎら)う。=朝日新聞2024年5月15日掲載