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「さま」の不安 津村記久子

《おたずねしたいことがあります。わたしは本にサインをする時、あなたのお名前に「さま」をちゃんとつけていますか? たまに、具体的に言うと夕方の買い物の帰りなどにそのことが頭に過(よ)ぎって、立ち止まって小刻みに震え出すことがあります。どうか、しっかり見張っていてください。忘れていたら必ず注意してください》

 今回は、大事なことなのでメッセージから始めることにした。わたしのような者でも、自分が中身を書いた本に名前を書いてと言われることがある。サインだ。サインをするような人間になると思っていなかったので、未(いま)だに誰かにうそをつかれているような気分になるのだが、わたしはときどきサインを頼まれる。

 本屋さんで書くこともあるし、何かのイベントの後などに、本を買ってくれたお客さんのために書くこともある。後者の場合、希望される方にはお名前を書く。「ため書き」という。その時に「○○ ○○○さま」のように「さま」をつけるのだが、これを自分はときどき忘れていると思う。

 理由はある。その直前に、どなたかのお名前を間違えないように書く、ということをするからだ。わたしはうかつな人間なので、これがたぶん普通の人よりも難しいのだと思う。たまに気をつけていても間違える。それで、なんとかお名前の最後まで書いて、ほっとしていたところにあるタスクが「さま」だ。いや難しいことではない。でも、書き間違えてはいけないどなたかのお名前(それでも間違える)を書き終わったという緊張の後の安堵(あんど)で「さま」を付け忘れることがある、と思う。

 「忘れてますよ」と言われたことは今までない気がするのだけど、自分は忘れそうだという確信があって、たぶんすごく忘れているのでは? と自問して冬でも道端で冷や汗をかく。

 この文をもって宣言としたいものだ。〈津村よ、「さま」を忘れるな〉。どうか注意してください。=朝日新聞2026年3月25日掲載