1. HOME
  2. コラム
  3. とりあえず、茶を。
  4. 猫以外のなにか 千早茜

猫以外のなにか 千早茜

 夫の実家からやってきた十歳のキジトラの雄猫と暮らして半年が経った。「小さな家族」と呼んでいる彼は十一歳になった。猫という生き物と暮らすのは初めてだったが、うまくやれていると思う。歯の手術はしたものの、小さな家族は健康で、よく食べ、よく眠り、規則正しく排泄(はいせつ)しては雄叫(おたけ)びをあげている。

 私は家で仕事をし、出不精(でぶしょう)でもあるので、小さな家族と過ごす時間が長い。座っている時は、食事中でも仕事中でも寛(くつろ)いでいても、見下ろせば小さな家族はたいがい膝(ひざ)で喉(のど)を鳴らしている。料理や掃除をしている時でも視界に寝たり遊んだりしている姿が必ずある。見あたらなくても、名を呼べば小走りでやってくる。

 ゆえに、たまに外に出ると小さな家族の姿がないことに落ち着かなくなる。スマートフォンに保存した写真を眺めては「いま、どうしているかな」と想像する。猫の豆知識や習性、他のキジトラ画像を検索して、小さな家族のことを考えてしまう。

 先日、友人と公園を散歩していたら日のあたる岩に必死に登ろうとしている亀がいた。なにがなんでも暖かい場所を獲得しようとする小さな家族の姿がよぎり、「小さな家族みたい」とつい口にして、猫じゃないのにと思った。「わかるよ」と同じく猫と暮らす友人は言った。「親しくなるとね、だんだん猫以外のものに見えてくるんだよ」と。確かに、担当編集者が好物の菓子に長い雄叫びをあげた時も、水族館できょとんとしたカワウソを見た時も、「小さな家族みたい」と思った。

 反面、キジトラ猫の画像を検索しても「似ている」と思うことが減った。毛色は同じだが、これは私の小さな家族ではない、と感じるのだ。この半年の間で、私の中の小さな家族の個性が確立されたのだろう。見た目より、表情やしぐさで認識している気がする。友人の言う通り、小さな家族は種としては猫だが、猫以外のなにかになりつつある。彼は彼で、代わりはいない。それが、特別ということなのだろう。=朝日新聞2024年7月3日掲載