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「理性の呼び声」 血の気の失せた哲学を生の沃野へ 朝日新聞書評から 

評者: 野矢茂樹 / 朝⽇新聞掲載:2024年07月06日
理性の呼び声 ウィトゲンシュタイン、懐疑論、道徳、悲劇 (講談社選書メチエ) 著者:スタンリー・カヴェル 出版社:講談社 ジャンル:西洋思想

ISBN: 9784065328095
発売⽇: 2024/05/16
サイズ: 13.9×19cm/992p

「理性の呼び声」 [著]スタンリー・カヴェル

 え、この本を読もうって? そりゃ奇特なことで。しんどいですよ、これ。分量も本文が900ページほどあって、内容もえらく難しい。野矢っていう哲学者なんか、ウィトゲンシュタインもオースティンも大好物だってのに、その二人から養分を吸って独自の実をならせてるカヴェルを読んだことがないっていうんだから。私はさ、こうしてカヴェルの主著が翻訳されたからね、ありがたく読ませていただきました。
 でも、一読しただけで分かったとはとても言えない。何を言ってるんだこの人は、と思いながらも目が離せないのは、目の前で哲学そのものが実演されているからだ。哲学者の大きさはどれほど問題に深く絡めとられているかにある。訳知り顔で教えを垂れる哲学者は小物であって、その意味でカヴェルはまちがいなく大物と言える。
 全体は4部構成で、第1部と第2部は伝統的認識論を論じている。ていうか、伝統的認識論を破壊しようとしている。正しい知識に基づいて行為すると考えるのであれば、行為の前に知識があることになる。そこで伝統的な哲学者は足を止め、手を休めて、知ろうとする。そして、世界について、他人の心について、いかにして知識が可能なのかという懐疑へと沈み込んでいく。この懐疑論をどう克服するのか。これに対してカヴェルは、行為する前に知識を求めることがそもそも倒錯した試みなんだと、そう言いたいんじゃないかな。知識が生きることを成り立たせるんじゃなくて、生きることが知識を成り立たせる。
 第3部は道徳についてだけれども、認識論のところで感じたいまの手触りはここでいっそう強く感じられた。人間不在の哲学、あるいは人間が登場しても記号化されている哲学、そんな血の気の失せた哲学を、生身の人間たちの営む生の沃野(よくや)に連れ戻すこと。私にはそれがカヴェルの一貫した姿勢に感じられた。だから、この人の議論は一見すると些事(さじ)にこだわってごちゃごちゃするのだろう。
 圧巻は最終章だ。ここだけで300ページ以上ある。いま「生身の人間」と言ったけれど、他人が生身の人間であると、自分が生身の人間であると、どうして言えるのか。そしてそれはどういうことなのか。その問いに七転八倒する哲学者の姿がある。
 しかし、それにしても、読む者のことをもうちょっと考えて書いてくれたっていいだろう。翻訳者の苦労は涙ぐましいものがある。それでも分かりにくい。草葉の陰にいるカヴェルに言いたい。ばかやろう。
    ◇
Stanley Cavell 1926~2018。米国生まれの哲学者。ハーバード大名誉教授。邦訳に『センス・オブ・ウォールデン』『眼(め)に映る世界 映画の存在論についての考察』『悲劇の構造 シェイクスピアと懐疑の哲学』など。