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言葉に出せない 深く感じた先、生まれたのは 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年8月〉

絵・黒田潔

 人は考えていることを言葉に出せると信じている。「出せなければ、まともには考えていないのだ」とも捉えられている。しかし言葉に出せないけれども考えているということは実際ある。そして考える前に感じている。それも深く感じている。その度合が深ければ深いほど言葉にしづらい、という現実もある。つまり「言葉に出せないぐらい、自分(の考えや感じ方)は深い」とも言い返せるはずだろう。こうした事実を踏まえて、それでは小説の言葉はいったい、いつ、どこから生まれるか。

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 小野絵里華「夜のこども」(「群像」九月号)は誰かにもしもしと呼びかけることで作品が幕を開ける。もしもし、聞こえますかと。呼びかけられてしまった瞬間に、その声を出している人物とその声を受け取るはずの人物が誕生する。この短篇(たんぺん)「夜のこども」の外側で、声を発しているのは作者である。声を受信するのは読者のあなたであり、しかしながら作品の内側ではそうではない。主人公のわたしがいて、このわたしは小学四年生らしい。呼びかけられているあなたがいて、そのあなたはまだ生まれてないらしい。じきに誕生する妹なのだ。出産前というか直前の母親の胎内にいる妹とその女の子は交信している。しかもこの主人公は、全部の感情をきちんと言語化できるだけの日本語を自分はまだ具(そな)えていないと自覚している。実のところこの自覚のもとに発される日本語こそ、ある一人の人間の「オリジナル(固有)の日本語」だ。その言葉は深い深い次元から汲(く)みあげられていて、だから彼岸だの赤ん坊たちの誕生前の世界だのと接続する。

 同じように作品の一行めの言葉がその小説内の“宇宙”をビッグバン的に誕生させているのは、いしいしんじ『息のかたち』(講談社)で、そこには十七歳の少女が他人の口から出る“息”が見えるようになったとの核心的設定が、冒頭のただ一文に刻みこまれている。まず“息”がなければ声がない。声がなければ発語がない。コロナ禍とは“息”の災禍であった事実をこの小説はこれまたオリジナルに描出し切る。が、その想像力の豊饒(ほうじょう)さよりも、むしろ不可視の事柄を「見える」ことにすることで世界の捉え方、認識のスケールを変更可にしてしまっている点にこそ真にオリジナルな感動がある。歴史の積み重なりを“息”で感受し、宇宙の果てまでの距離をコロナ感染で隔離されたホテルの一室の寸法に縮小させる。この「世界のスケールは変わっていい」との訴えは希望に満ちる。

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 いっぽうで閉じた世界こそは無限性のある異界に変容しうるのだと説得的に物語るのが佐藤厚志『常盤団地の魔人』(新潮社)である。主人公は小三男児で、前年度までは小児喘息(ぜんそく)のため少人数の特別支援学級にいた。だが通常クラスに編入となって環境が激変。かつ家族と暮らしている団地はいわば地霊に満ちる場所である。その地霊はどこか冷酷であって、乾いた空気で男児を包む。最終的にこの子の感受する世界は「実寸サイズ」に縮むのだが、それは幸福なのか、そうではないのか。むしろ実寸以前にこそ“リアル”があった、そう読者に思わせるのが、本書『常盤団地の魔人』の魔に通じた力か。

 閉じている場所ではなく閉じている「わたし」と「あなた」の関係に焦点を絞り、それが外界にどのように、どれほどのインパクトを与えうるかに肉迫したのはイーユン・リー『ガチョウの本』(篠森ゆりこ訳、河出書房新社)だった。作中の二人、「あなた」が物語を作って「わたし」が文章化しているという構造のその外側に私たち読者は置かれる。なぜなら主人公が自分自身を把握し切っていないからだ。一九五〇年代のフランスに現われた天才少女作家の物語ともまとめられる一作だが、幼少期から墓地という場所で遊んだ二人の少女の物語とこれは言い換えられる。その二人のキャラクター造形と、金言集の趣きの造りが魅力的だ。

 言葉を発する発しない以前に、考えているとも見做(みな)されていない事物に考えさせ、発語させたらどうなるかの実践が井戸川射子「島の成り立ち」(「群像」九月号)にあった。島が思考し大魚が思考し岩も思考する。そこに人間たちの思考も混じる。すると、人というものは考えるし感じるものだから、たとえば魚類が考えて、感じるのは自然であるとも思え、そうした読者の揺らぎに島が反応している。だからこそ島は動いて、大きさを変える、というこの短篇は“世界”の成り立ちに迫っている。=朝日新聞2024年8月30日掲載