「裏庭のまぼろし」書評 時代に塗りつぶされないように
ISBN: 9784750518497
発売⽇: 2024/07/24
サイズ: 18.8×1.9cm/260p
「裏庭のまぼろし」 [著]石井美保
8月のカレンダーをめくると、戦争を語ることばの波は引いていく。いいのかなと疑問に感じていたら、本書に出会った。肌に感じる空気が、どこかいまと似ている。
コロナ下のある日、著者はだれも住まなくなった実家で大叔父の遺品を見つける。彼は若き陸軍将校で、小さなスケッチブックを残していた。
軍服の写真と不釣り合いな優しい風景画。著者の心は動く。大叔父の妻が保管していた手紙をきっかけに、家族と戦争をめぐる旅は始まる。
国家総動員法へと動く1930年代後半から終戦へ。曽祖母にさかのぼる家族史である。
家のある大阪、大叔父の任地の東京、台湾、消息を絶った沖縄へ。
手紙のなかの人々は、恋人を思って眠れぬ夜を過ごしたり、乏しい物資を工夫して贈り物をしたり。著者はやりとりされたことばを読み解き、行間に隠れた感情を思いやる。史料や集めた声を層に重ね、家族と戦争がひとつの像を結んでいく。
繰り返し著者が書くのは、国の決定にいや応なく巻き込まれる理不尽。代々の家業だった造り酒屋は「不急不要」として廃業に追い込まれた。長年暮らす田園地区は「人家散在」という理由で造兵廠(しょう)の建設地となり、住民を危険にさらす。その災いが、祖父を望まぬ跡取りの役目から解放し、科学者として軍用機のための研究に向かわせるのも、苦い皮肉である。
一方で書名にある「裏庭」は、土間や台所を含めた日々の営みの象徴である。曽祖母や祖母はそこでいつも手を動かし、家族の世話だけでなく、生活に喜びをもたらしていた。裏庭だけは時代の色に塗りつぶされない。激変した戦後を女性たちが生きつづけていくための「素地となったに違いない」と著者は記す。
文中には命の循環を表すように植物の名が織り込まれ、幻想的な挿画とともに寓話(ぐうわ)の読後感を残す。過去に何を教わればいまの空気にあらがえるか。9月の宿題である。
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いしい・みほ 文化人類学者。京都大人文科学研究所教授。著書に『環世界の人類学』『遠い声をさがして』など。