まず、本の見た目に圧倒される。作家、奥泉光さんの新刊小説「虚史のリズム」(集英社)は、通常の単行本より一回り大きいA5判で千ページを超す大作だ。「dadada」なる謎の文字列が連なる表紙をめくると、ミステリーやSF、伝奇といったジャンル小説の手法を駆使しながら、占領期の日本を生きる人々の精神性をつまびらかにする、破格の戦争文学が始まる。
「戦争というものが人々にどう受け止められてきたのか、ずっと関心があって。一種の思想小説として、大きな枠組みを提示したかった。ある程度のボリュームになるのは覚悟していたんです」
敗戦から間もない1947年、山形の軍人一家・棟巍(とうぎ)家の当主夫妻が殺害される。かねて探偵になりたかった石目(いしめ)は、戦中に収容所で知り合った棟巍家出身の元陸軍少尉・神島から依頼を受け、事件の調査を始める。さらに石目のもとには海軍の機密が隠された「K文書」の捜索依頼が持ち込まれ……と、ミステリー風のあらすじを書き連ねるだけでは、小説の本質に迫れない。
本作の視点人物はくるくると変わる。石目の視点はユーモア交じりのハードボイルド調で、占領下日本の時代相を猥雑(わいざつ)に映し出す。一方、神島の視点は従軍体験の記憶がフラッシュバックしながら揺らいでいき、途中からは「dadada……」と響く謎のリズムと共に幻想的な心象風景へ導かれていく。加えて三人称視点で、「天皇」や「民主主義」について声高に語る人々の姿や、謎の活動家たちが「K文書」をめぐって暗躍する活劇風のパートが描かれ、十人十色の戦争体験がつづられていく。
「多声の絡み合いの中から小説世界を浮かび上がらせたかった。戦争の記憶や体験を、単一のわかりやすい物語に閉じ込めたくなくて。語りを多声化することで、そこから逃れられるのではないかと思った」
多様なのは語りだけではない。奥泉さんの持ち味である奇想もあふれかえっている。人のように見えてもろもろと離散する「鼠(ねずみ)集合体」、同じ人生を繰り返す「第二の書物を読む人」、「皇祖神霊教」が牛耳る陸軍の研究所……戦時下を舞台にした「グランド・ミステリー」「神器」「東京自叙伝」「雪の階(きざはし)」……といった過去作のモチーフが次々と現れ、読み手を幻惑させる。
とりわけ、本の作りも含めたたくらみが「dadada」の文字列。物語終盤、ページを、行間を埋め尽くすかのようにあふれ出す。ドイツ語で「そこ」を意味する「ダー」の響きは何なのか。
「戦争体験をどう言葉にするのかというテーマを持って書き進めるなかで、ふと出てきたんです。神島が言葉どころか、意識もできない体験の凝縮物のようなイメージかな。戦争体験って、よくある物語に即してなら冗舌に語れても、それは本当に自分の体験なのかわからない。その語れなさがdadadaかもしれない」
冒頭の山形の殺害事件は一応の解決に至り、小説はいったん終わる。しかし、大きな問いかけは残されたままだ。
「僕が考え続けているのは44年7月のサイパン陥落以降、絶対に勝つことがありえなかった戦争を、なぜ誰も止められなかったのかという問題です。あの後に亡くなった人の数が圧倒的に多かったのに。近代史を舞台に繰り返し書いてきたけど、次は近世まで視野に入れて、問い続けようと思います」(野波健祐)=朝日新聞2024年9月25日掲載