江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の作者として、新しい地平を切りひらいた近松門左衛門。その生涯を描いた「一場(いちじょう)の夢と消え」(文芸春秋)は、松井今朝子さんの人生を重ねて生み出された渾身(こんしん)の芸道小説だ。
「曽根崎心中」「国性爺(こくせんや)合戦」。近松は浄瑠璃だけでも100本ほどの作品を残した。日本のシェークスピアともいわれる劇作家だ。
近松作品にはなじんでいる。大きさがわかるだけに、近松を書くには決心がいった。膨大な資料を調べ、作品を読みこんだ。「資料を体にしみこませるのが大変でした」と苦笑する。
史実をもとに緻密(ちみつ)に織りあげた物語は、虚である近松の作品とその実人生がからまりあい、厚い人間ドラマとなった。作中にこんなセリフがある。「虚と実の間をつなぐのが芸というもんじゃよ」。近松がうたった芸論「虚実皮膜」が物語として立ち上がる。
武家に生まれた杉森信盛が芸の世界に踏み出し、作者となる。竹本義太夫と出会って人形浄瑠璃の新しい花を咲かせ、初代坂田藤十郎と元禄上方歌舞伎の一時代を築く。書くことの苦悩があり、家族との葛藤もある。芸能がしめつけられていく享保時代の息苦しさも描かれる。
近松の身になって書いていたという松井さん。「武家に生まれた人が芝居の世界に足を踏み入れるとは人生の大転換。不安もあったでしょう。それを乗り越えて初めて『作者』と名乗る人になったのです」
歌舞伎作者として活動した後、再び人形浄瑠璃に戻って発表したのが「曽根崎心中」。「実際にあった出来事をもとにしても、単なる再現ドラマではない。構想力に秀でていました」
それに、近松の言葉は強さをもっていた。「語彙(ごい)力が並大抵のものではない。飛び抜けた知識人だったんですね。和漢の書から多くの言葉をとりいれ、浄瑠璃を豊かなものにした」
没後300年のいまも通じるリアリティーがある。言葉が古びない。「冥途の飛脚」「女殺油地獄」といった題名もインパクトがある。
松井さんは言う。「人形浄瑠璃がいまでいうアニメだとすれば宮崎駿さんみたいな人であり、歌舞伎役者に向けて脚本を書くのは三谷幸喜さんのようであり、プロデューサー的な面があると考えると秋元康さんのようでもある。この3人を兼ねたような人だったのでは」
松井さんの生家は京都・祇園の料亭で、文楽の太夫らがよく訪れた。人形浄瑠璃の一節を家人が当たり前のように口にするのを聞いて育ち、「義太夫節が耳にしみていたんですね」。
小学校時代から文楽を見に通った。6年生の時には「文楽は見るもんではなく聞くもんですなあ」と言っていたという。幼いころから芝居にかかわった蓄積がにじみ出る作品となった。
徳川吉宗の享保の改革の時代となり、言論統制が厳しくなる。心中ものの禁止などこまかいおふれが出た。人々が縮こまっていく時代に近松は世を去る。「最晩年の作品は時代を批判しています。批判精神をもった劇作家でした」
書き上げて、松井さんはあらためて感じた。「世俗的な欲望や家庭の問題と、いろいろな煩悩を抱えて生きた人だと実感した。実人生の厚みが彼の作品につながったのだろうと。その厚みがなければ、深く突っ込んだ言葉は出てこなかったかもしれません」
松井さんの集大成ともなった1冊にはその役者観、芸能観がつまっている。読み終わると、近松作品の舞台が見たくなる。(河合真美江)=朝日新聞2024年10月9日掲載