
村木嵐さんの歴史小説「いつかの朔日(さくじつ)」(集英社)は徳川家康に仕えた親子を通して戦国の世を見つめる。いつか天下をとる人だと家康を信じる忠臣たちを描いた連作短編集だ。
家康の忠臣、鳥居元忠にひかれていたと村木さんは言う。少ない軍勢で伏見城に10日以上籠城(ろうじょう)し、主君のために命をかけた。「かっこいいなと。どうしてこのような人になったのか。そのもとには父親忠吉の存在があった」
この鳥居忠吉、元忠の親子を軸として、主君となる家康の成長を浮き彫りにした物語だ。幼いころに今川家の人質となり、父親を亡くした家康。竹千代と呼ばれたころからそばで仕えたのが元忠であり、家康の出世を信じて松平家を支えたのが忠吉だった。「忠吉はつらい時代を耐え抜いた。地味に見えますが、彼もかっこいい」
元忠と父親の忠吉、家康と父親の松平広忠。どちらの親子も、父から息子へ言葉をかけることなく、会えないままでも思いは伝わっていた。そんな親子関係が描きたかったという。
戦国の世は女性にとっても厳しい。武士の妻たちはわが子と引き裂かれたり、家のための結婚を重ねたりもした。幼い家康と別れざるを得なかった母親、於大(おだい)もしかり。「それでも生き抜いた。強いと思います」
つらいことがあって、つい下を向いてしまうような時、今作を読んでほしいと村木さんは願う。「空を見上げたくなるような作品になっていたら」
村木さんは1995年から司馬遼太郎の家で家事手伝いをしていた。翌年、住み込んで3カ月後に司馬は亡くなる。短い時間だったが、その姿は鮮明に残った。「すいすいっと原稿を書き上げているように見えた。ゴミ箱に書き損じもありませんでした」
司馬と妻の福田みどりさんに書くことを勧められた。「無理、無理」とかわしていたが、みどりさんに「いつか書く道に進んでほしい」と真剣に言われたことが背中を押した。
いざ書くと、司馬を見ていたのとは大違い。たいへんな苦労が待っていたが。
みどりさんは2014年に亡くなった。その最期に向かう暮らしのなかで、この連作短編のいくつかを書いた。苦しい思い出がつまった作品でもある。
みどりさんには作家として自分の芯になるものをすべてもらったと思う。亡くなってからもずっと一緒にいるつもりで、毎日話しかけている。
作家になった時、みどりさんに「ありがとう」と言われた。どんな意味だったか、考え続けている。書けなくてつらい時、「ありがとう」を思い出す。
みどりさんに何も返せなかった。そんな後悔が尽きない。ただ、書くことは手放すまいと思っている。
「本を閉じた時、ああ読んでよかったと思ってもらえる作品を書いていきたい」(河合真美江)=朝日新聞2025年2月5日掲載
