
東京と地元・釧路の「地域格差」
――東京と地元の北海道・釧路との地方格差について、阿部さんが以前に書いた記事がウェブで話題となりました。改めて、どのような違いがあったのでしょう。
そりゃもう、すべてが違いましたね。文化や情報、あらゆることに不満があったんですが、なによりも釧路には学習参考書の品揃えがいい本屋がないことが辛かった。高校を卒業してすぐ上京して自宅浪人したんですが、しばらくは大型書店でラインナップに感動しながら参考書を吟味する日々を過ごしていました。
たとえば都内の進学校だと、どんな参考書をやってどんな勉強をすればいいのか、東大に入るような高校生がどのくらい賢いのか、どのような本を読んでいて、どんな知識があって、どんな喋り方をするのか、そういった情報が目の前にあるわけですよね。俺の場合は大学進学者が周囲にまったくいない環境で育ったので、そもそも大学生という存在を想像することすら困難でした。東大に入ってから、東大にめちゃくちゃ近い立地の進学校が最強だということを知って、そりゃそうだろ、チートじゃん、と思いました(笑)。
あと俺の場合、たまたま服が好きだったので、中高の頃とかにファッション雑誌を読んで、そこに載っている服はもちろん地元には売っていないわけで、全部東京にしか店がないんですよね。もともとは勉強よりも、その不満が「東京に行かないと始まんねえ」という強い渇望の源泉でした。

――釧路での10代の頃はどのような日々だったのでしょうか。熱中していたことなどはありましたか。
当時は音楽ばかりやってましたね。その後、大学でもバンドサークルに入っていて。ただ10代の頃は、なんというか、ただの田舎のヤンキーだったので(笑)、いろいろと悪いことばかりして遊んでいました。
――その一方で、やはり勉強はできましたか。
できたと思います。ただ、当時かなり治安がヤバい中学に通っていたんですが、そこですら学年1番を取ったことはなくて、ダントツだったわけじゃないんですよね。高校は地元のトップ校ではあったんですが、3分の1は就職して、けど3年に1人くらいは東大進学者が出るみたいな、いわゆる「進路多様校」でした。しかしそこでも「あいつは東大だろう」みたいなレベルで成績がよかったわけでもなく。高2の秋に大学進学を考えはじめて、東大を受けようと考えたのは高3の冬で、学力が伸びたのは浪人時代だったんですよね。そのときの独学と急成長の経験が、東大に入ってから自力で論文が書けるようになっていったベースにあります。
浪人時代、まずは「どうやったら俺でも勝てるだろう」と考えたんですね。みんながむしゃらに勉強しちゃうけど、それは危険だと思ってました。あるいは予備校に行くとパッケージ化された勉強方法を与えてもらえて、それは有効ですが、これもまた安心してしまいそうで危ないなと。大学受験には入試問題と解答がある以上、きちんと分析すれば自力で攻略する方法を構築できるはずだという謎の自信があったんです。勉強してしまうまえに、各教科について何をやればいいのか正確に把握するという作業にかなりの時間を使いましたね。

文学を論じる面白さを知った
――宅浪で東大に合格するのがすごいと思いますが、大学進学後はどのようなきっかけで文学研究に関心を持ったのでしょうか。もともと文学がお好きでしたか。
文学が特別に好きだったわけではないんです。もちろん小説をまったく読んでいなかったわけではないんですけど、明確に大きかったのは、学部2年生の頃に英語で短編小説を読む柴田元幸先生の授業を聴講させてもらったことでした。毎週レポートを出すんですが、それが添削されてB−からAまでの評価がつくやつで。さらに前の週の優秀レポートが匿名で配られて、これが本当に衝撃でした。みんな初見の小説で、同じ条件で論じているのに、「こんなすごいレポート書けるやつが同世代にいんの!?」と。それが「この小説について一番面白いこと言ったやつが勝ちゲーム」みたいな感じで、めちゃくちゃハマったんです。だから文学の面白さというよりも、文学を論じることの面白さが大きかったですね。あれがなかったら、研究者にはなってないと思います。

――今回の書籍『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』では、論文の書き方を指南していますが、大学・大学院時代にそれを身に付けないといけないと思ったきっかけはありましたか。
最初にアカデミック・ライティングのメソッドについて真剣に考えたのは、東大の大学院の博士時代、優秀な友人に自分のレポートを読んでもらったときでした。ものすごく長いメールで、「いかにおまえの論文は第1段落を読んだ時点で読むに値しないと思われてしまうか」を事細かに解説してくれたんです。こちらとしてはいい論文だと思っているわけですが、プロの意見は全然違う。これは単純に評価が厳しいってことではなくて、第1段落でもうダメだとわかっちゃうんですよね。同じ文章を読んでも、そこから受け取っている情報量が段違いなんです。このときの経験は、今回の本で紹介した、論文のパラグラフを解析する方法論につながっています。
そしてもうひとつ、アメリカ留学から帰ってきた先輩が授業をしていて、その先輩が俺を含めたみんなの論文を見て「イントロに結論を書いてないけど、なに考えてんの?」と怒っていたんですね。こっちとしては「えっ?イントロに結論なんて書くものなの?」って感じで。そう言われて色々な論文を読んでみると、たしかにどれもイントロに結論が書いてある。そこではじめて、「ふだん何気なく同じ論文を読んでいても、結論はイントロに書くものだということが当たり前にわかる人と、わからない人がいるんだな」と知りました。つまり自分は「読めてない」のだと気づかされて、この経験も大きかった。これって論文の内容の理解とは無関係なんですよね。
その人はめちゃくちゃ優秀なんですが、俺と同じように論文を読むという作業から「論文とはそういうものだ」というルールを抽出できている。でも俺はそれを抽出できなかった。けど、言われてみたらイントロに結論が書いてあるってことは見えるようになるし、一度わかっちゃうと、なんでこんなことに気づかなかったんだろうと思うようになる。たとえばこういう経験から、アカデミック・ライティングが方法論として言語化されていないことを問題視するようになっていきました。自分が論文書けない理由の大部分は、バカだからじゃなくて、基本的な作法をインストールできてないからなんだなと。

論文はどのようにあるべきか
――『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』では、大学1年生の初学者でも、論文が書けるようになる方法が書かれていますね。
大学1年生からプロの研究者までをひとしく啓蒙する本になっています。けどこれは、初学者向けに噛み砕かなきゃ駄目だぞと意識してそうなったわけではなくて。この本は難解・複雑なことはぜんぜん書いていなくて、「論文とはなにか」、「引用とはなにか」という感じで、誰もがわかっているようでわかっていない基本事項について改めて問い直すことばかりしています。俺はそういう原理論から本質にアプローチするのが得意なんです。そして真に本質的な議論のまえには、誰もがひとしく初心者になる。
――そもそも、論文とはどういうものなんでしょうか。キーとなる「アーギュメント」とは何でしょうか。

論文は人々の考えを更新するものです。だから論文は、みんなすでに知っていたりわかっていたりするようなことを言ってもダメで、現状だれもそう信じていないことを主張する必要がある。その核となる主張内容を一文で表したテーゼが「アーギュメント」です。けどそれは誰も信じていない主張なので、「えっ、それってどういうこと? 違うのでは?」というリアクション(反論)が出てくる。そのうえで、いやいや自分の主張が正しいのだ、ということを論証してゆくのが論文です。
俺の場合はテーマが「暴力」です。いちばん大きなトピックは戦争なんですが、別のわかりやすい例を出すと、たとえば同性愛者を差別してはいけないのは今では常識になりましたよね。けど、かつては同性愛者というのは「異常」で、「変態(クィア)」な存在でした。そればかりか、リプロダクションをしない同性愛者は命の価値が低く、殺してもいいと考えられていた。これは極端な思想というわけではなくて、差別というのは本質的に、優れた人間が劣った人間を殺してもよいという、命の軽重にかかわるイデオロギーです。
たとえば“Black Lives Matter”は日本に入ってくると「人種差別」への抵抗に見えてしまって、それはそうなんですが、けどこれって白人が黒人を殺しても犯罪にならないアメリカ社会への抵抗なんですよね。「黒人を殺すな」って意味なんですよ。なにが暴力でなにが暴力でないのかについての定義はつねに揺れ動いているもので、世の中のあらゆる暴力を悪であると批判し、常識を刷新していく。自分の論文1本だけでそこまで大きな変化は起こりませんが、それを人文学全体でやっているんだと信じています。

――本書は東大・京大をはじめとした大学生のあいだで売れています。この反響の大きさについてどう思いますか。
大学生に読まれるのがいちばん嬉しいですね。この本には「論文はアーギュメントを書くものだ」というアーギュメントが書かれています。でも今、日本のアカデミズムにはそうしたコンセンサスはない(だからこれがアーギュメントになる)。それが浸透するには、必ず時間がかかります。10年、20年と読まれて、今これを読んでいる若い世代がアカデミズムの世界で中核を占めるような世代になってきたら、ようやくそれが当たり前になる。時間はかかりますが、この変化は確実に起こると断言できます。
『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』は2024年、東大・京大の大学生協で年間1位(人文書)、全国の大学生協のランキングでも年間もっとも読まれた本になりました。大学生の多くは割引がある生協で本を買うので、間違いなく大学生に届いているということです。東大・京大の優秀な学生たちには、この本を吸収して立派な学者になる……のは当然として、俺の論文観をさらに刷新していってほしい。そして、地方の大学で周囲に研究者志望の仲間があんまりおらず、情報が乏しい中で孤軍奮闘している人たち、つまり昔の自分のような人たちにとっても、本書がひとつの救いになってくれたらと願っています。
