人生で最もぴりぴりするのは、店で紙箱に詰めてもらったケーキを持ち帰る時間だと思う。果物やクリームで飾られ、層構造になった柔らかな洋菓子は衝撃にも温度変化にも弱い。平行を保ったまま可及的速やかに自宅の冷蔵庫に運ばなくてはならない。菓子職人が精魂込めて作った美しい菓子は、傍らに紅茶を従えた皿という舞台でのみ崩すことが許される。背徳感に満ちた恍惚(こうこつ)の一瞬だ。
なのに、都心は人が多い。電車もたいがい混んでいるし、道もそう広くない。ほとんどのケーキ箱は幅があり、まちの広い紙袋に入っている。片手に提げてぼんやり歩いていれば、すれ違う人や追い越してくる人が紙袋に接触する危険性がある。両手で紙袋を抱いていても、動きが読めない酔っぱらいや子供が近くにいたら緊張する。こちらの気も知らず、車内で騒いでいる集団のうちの一人がぶつかってきたりすると殺意がわく。ケーキくらいで殺意を、と思うだろう。私も思うし、殺意を抱くことは非常に疲れるから避けたい。
先日、銀座にて開店二時間ほどで売り切れてしまうケーキを運良く買えた。天にも昇る心地で駅に向かおうとして私だけ地獄に落とされる。大通りが歩行者天国になっていた。人の軌道がまるで読めない。息が浅くなるほど緊張しながらケーキを守り、デパートから地下鉄に降りようとしたら、エスカレーター前で大渋滞が起きていた。焦(じ)れて、人を押しのけてエスカレーターに乗ろうとする人もいる。背後も人の群れで引き返せない。終わった、と思った時、「危のうございます」と声が響いた。店員の男性が人々を誘導していた。「一列で順番にお願いします。危のうございます」。古めかしく、どことなく長閑(のどか)な響きに肩の力が抜けた。人々も指示に従い、一列になり追い越しをやめた。店員はずっと「危のうございます」を繰り返していた。
それからケーキを持ち帰る時は「ケーキが通りまする。危のうございます」を心の中で呟(つぶや)いている。ぴりぴりは不思議と和らぐ。=朝日新聞2025年2月12日掲載
