根をつめて執筆してベッドに倒れ込み、夫に背中や腰を揉(も)んでもらい「あーそこそこ!」と悶絶(もんぜつ)していて思いだした。子供の頃、こんな大人を不思議な気分で眺めたことを。顕微鏡を覗(のぞ)くのが主な仕事だった父にはよく「背中を踏んでくれ」と言われた。私は父の背中をぎゅうぎゅうと踏みつけたり腰に乗ったりしながら、なぜこんなことが気持ちいいのだろうと首を傾(かし)げていた。凝る、という感覚がわからなかったからだ。
今はもう共感なんていう言葉では生ぬるいほど、凝りのつらさがわかる。大人の精神は理解できないままだが、まぎれもなく大人の体になってしまったことを実感している。しかし、凝りや疲労が蓄積しない体だった頃が思いだせない。どんなに遊んでも一晩寝れば新品のような顔で起きてくる小学校低学年の姪(めい)に驚くし、部活の朝練から一日を始め学校(体育の授業もある)、放課後の部活、塾通いをこなしていた中学生の頃の自分は自分とは思えない。今、朝の七時台に校庭を走って百を超える素振りをし(剣道部だった)部室の掃除をしたら、仕事なんてできる気がしない。筋肉痛で三日は寝込む。
けれど、二十代の貧血が酷(ひど)かった頃の自分は思いだせるのだ。駅の階段を上るたびに息切れしていたことも、体の重さも、気が遠くなっていく時の視界も音も、感覚として残っている。あの頃、私にとって世界はのしかかってくるように重く息苦しいものだった。三十代の、持病が悪化していた時期の記憶もしっかりとあり、戻りたくないと思う。どうやら体に関しては良い記憶は失われ、悪い記憶は残るようだ。凝りや痛みやしんどさは、体が獲得した経験として認識されるせいかもしれない。
今、体重は過去最高に重いが、貧血は治り、持病も落ち着き、とても食事が美味(おい)しい。疲労も凝りもこの先すっきり消えることはないだろうけど、若く体力があった頃を思いだせないおかげで、今が一番良い状態ということになっている。体の記憶は私の加齢に優しいようだ。=朝日新聞2026年3月18日掲載