選挙の度に感じていることだが、今年二月に行われた衆議院選挙は自分がマイノリティ側であることを特に意識させられた結果となった。マイノリティの意味をつい調べなおしてしまったくらいだ。
しかし、考えてみれば選挙に限ったことではない。昔から自分は教室のすみっこにいる人間だった。いや、保育園にいる頃から一人ぽつんと「どうして」と思っていた。「どうして眠くもないのにお昼寝の時間は寝なくてはいけないの」に答えてくれる人はなく、眠りたくない私は逃亡しては叱られ、時間を持て余していた。学校では「いま先生が言ったことなんかおかしくない?」と目を見交わす友人はいたが、私たちの声は小さかった。教室の男子に「女のくせに」と言われるのも、揃(そろ)いの制服を着なくてはいけないのも、髪型(かみがた)を校則で決められるのも、どうしてなのかわからず、納得のいく説明を得られたことはなく、息苦しかった記憶ばかりがある。
大人になれば自由にしていい、と親からは言われた。けれど、働くようになっても、「どうして」は消えない。どうして勤務時間外の飲み会に参加しなくてはいけないのか。どうして結婚すると女性は下の名前で呼ばれがちなのか。問うと周りを困らせるのはもうわかっていた。集団で働くのは向かないことも。ただ、個人で仕事をするようになっても自分が少数派に属するという意識は消えなかった。コーヒーもビールも飲めず、売上一位の音楽も映画も本もピンとこない。自分はずっと教室のすみっこにいる気がしている。
けれど、私はマジョリティになりたいわけではない。マイノリティのままでいいと思っているわけでもない。「どうして」の答えをずっと知りたいだけだ。数による決定は答えにはなり得ない。そのことが今回の選挙でわかった。
今は降って湧いた憲法改正に疑問がある。どうして憲法改正が必要なのか。この問いへの説明はどうしても欲しいと思う。=朝日新聞2026年2月18日掲載