文藝賞・待川匙さん ある日、「書かないと小説家になれない」と気がついて 「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」#22

「小説家になりたいと思ったことは、ないかもしれない。自分ではすでに小説家になっているつもりでしたから」
小学1年生の図書の時間がきっかけで読書に目覚めたという待川さん。やがて文章をチラシの裏に書き写すようになった。
「あの頃は自分が書くということと、他人の文章を書き写すことの境界が曖昧だった気がします。小説に限らず、架空のCDを作ったりもしました。架空の曲名、演奏時間、歌詞や後ろの著作権のクレジットまで作って。物体としての文が好きだったのかもしれません」
ゲームのノベライズにハマって、自分でも物語を書くようになった。小学6年生の時には、高校生のフリをして、ある少年漫画の2次創作小説をネットに投稿していたそう。
「当時はメールアドレスを公開していて、年明けに読者から150通以上のあけおめメールが届いてびっくりしました。中には僕の投稿した小説より長いんじゃないかっていう熱のこもった感想もあって。その熱量に怖くなったのもあって、やめてしまいましたが」
たしかにそんな経験をしたら、「もう小説家になっている」と思ってもおかしくない。
文芸誌と出会ったのも中学1年生と早熟だ。
「はじめて買った文芸誌は『文藝』です。萩世いをらさんと中山咲さんの文藝賞受賞作が掲載されている号で、それまでヤングアダルト小説しか読んでいなかった僕には衝撃的でした。こんな小説があるんだ、と」
以降、頭の中で小説を作るようになった。
「当時は綿矢りささんや羽田圭介さん、15歳で文藝賞をとった三並夏さんなど10代でデビューされた方がたくさんいたので、自分も17歳くらいでデビューするんだろうなって思ってたんです。だけど、いつまでたっても自分の本は書店に並ばない。当たり前ですよね、頭の中の小説を一切文字にしてなかったんですから。大学に入ってレポートを書くようになって初めて、考えることと、それを文字にすることの大きな差を知りました」
「書かないと小説は小説にならない」と気づいた待川さんは21歳から応募をスタート。五大文芸誌の賞はもちろん、地方の小さな文学賞やネットで開催されているショートショートの賞など手あたり次第送った。小説についてなにか勉強はしたのだろうか。
「勉強といえるかどうかわかりませんが、一時期、読者0人とか投稿1件のブログを漁っていました。誰にも向けていない純粋な文章が、とんでもなく面白いんです。でも僕が熱心な感想を送ったり、いいねをつけたりすると、面白く書こうと意識してしまうのか、次の投稿からめっちゃつまんなくなるんですよ。それで何人もの良さを潰してしまって……。今まで本屋で売られているような文章ばかり読んできたけれど、もっと原初的な文章のすごさに気づかされました。それを小説に出来たら面白いと架空日記を100枚ひたすら書いて応募したことも。どこにも通りませんでしたが(笑)」
大学で入った短歌サークルでも気づきがあったという。
「短歌はブログとは真逆で、みんなで作品を読み合って評しあうのが基本。読まれることが前提なんですよね。人の作品を読み解いたり、自分の意図とは全然違う読まれ方をするなかで、自己完結していた文章が多少は開かれたように思います」
そのほか、文芸誌で名前を知っていたフランス文学者・野崎歓先生のフローベールを読むクラスや、英文学者・阿部公彦先生の日本の小説を読むクラスなども積極的に出席。けれど小説は、何度応募しても1次予選すら通過しなかった。
「書けば当然通るだろうと思ってました。ところが箸にも棒にもかからない。一晩で一発書きして、そのまま送り付ける→落選する、というのを2~3年やって完全に心が折れました。今思えば、そりゃ当たり前って感じなんですけど(笑)。それぐらいの年齢になると、思っていた通りにいかない経験をいろいろ積むじゃないですか。あ、そっか。小説もこっちのパターンなんだ、って悟っちゃったんです」
以降、小説は「書くもの」ではなく「読んで楽しむもの」と考えるようになった。筆を折ったのにはもう一つ別の理由もあった。
「一人暮らしの家に置いてあったお金を盗まれてしまったんです。よく家に友だちを呼んで遊んでいたので人間不信になって、学費が払えず大学も中退。1年くらい引きこもってプレステばかりやってました。当時は3日に1回パスタ食べて終わり。小説どころじゃなかった。あの頃の自暴自棄な暮らしは今作の主人公の描写にも反映しています」
その後はフリーターや派遣をしてきたけれど、本人曰く、中には「ド、ド、ド、ドブラック」な労働環境も。大企業の6次下請け、手取り8万の現場で働いたこともあったそう。そんな中でプログラミングの技術を身に着け、コロナ禍を機に北海道へ移住。ようやく8時間勤務・土日休みの安定した仕事に就いた。
「それでもう一度小説を書いてみようと思いました」
29歳の時、今度こそは、と推敲に1年ほどかけた渾身の一作を北海道新聞文学賞に応募。けれど、まさかの落選だった。
「やっぱり書く側じゃないんだ、と思いましたね。その頃、業務委託で入っていた案件が一段落したので、正社員を目指して転職活動することに。その前に、もう一度だけ文藝賞に応募してこれで区切りをつけようと決めました。完全に記念受験だったんです」
過去に一度だけ、2次通過した作品があった。その短編を長編に作り替えることに決め、プロットを立て、登場人物を設定し、トリックとオチと犯人のいる本格ミステリーの構成ができた。その中盤にあった、主人公が帰省するシーンになぜか惹かれてそこから書き始めると、筆が止まらなくなり、60枚に膨れ上がった。
「それが今作の冒頭部分です。何度書き直しても気に入らず、お盆から年末まで4カ月間、毎日その一か所だけを書いては消し、書いては消し、していました。そのうち考えていたプランが消えていき、人物の名前もプロフィールも消えていき、自分の意識から離れた、ひとかたまりの文章ができたんです」
それは他人のブログで貪り読んでいた〝純粋″な文章だった。
「でもその続きが思い浮かばず、転職活動も忙しくなったので、年末から3月に入るまで放置していたんです。3月になってアニメ『葬送のフリーレン』や、『ダンガンロンパ』のゲーム実況にハマって。『フリーレン』のいきなり過去の話が始まる感じや、『ダンガンロンパ』の嘘か真かを議論し合う感じを面白く見ていたら、あ、書けるかもと思って。その時点で締め切りまで10日くらいしかなかった。最後の50枚は締切前日に一気に書きました」
そして昨年の夏、03で始まる番号から電話がかかってきた。セールスだと思って何度か無視し、それでもかかってくるので折り返すと、最終選考に残ったという連絡だった。
「その時点では、完全に切り替えて、新しい会社で仕事に注力していたんです。勉強を趣味にして生きていこうと数学を学び始めたりもしていました。どうせ受賞できないし、待つのもしんどいから『やっぱいいです』と選考を辞退しようかと思ったくらい。でも、事務的な確認で編集者さんにお会いしたら、その方が、僕がその前の年に読んでベストだと思った翻訳小説の担当だったことがわかって……。小説の話で誰かと盛り上がったのは久しぶりで、それがなかったら本当に辞退していたかもしれません」
見事受賞が決まってから今に至るまで、ずっと夢の中にいるようで実感がないという。
『光のそこで白くねむる』はなぜ受賞できたと思いますか。
「昨日までは、書き直しを徹底したからだと思っていたのですが、昨日、上京して文藝賞同期の松田いりのさん、前回の文藝賞の小泉綾子さん、佐佐木陸さん、図野象さんと飲んでいたら、みんなが『なんで受賞したかわかんない』って言ってたんですよ。やっぱりそうなのかも。たまたま今回は拾っていただけた、というだけかもしれません。僕の場合は、今までは頭の中を出力したものだったのを、自我を捨てて制御をやめたらうまくいった。逆に今、自我を捨ててやっている人は、がちがちに決めたら書けるかもしれませんね」
書き上げてみてどんな作品になりましたか。
「そのつもりで書きはじめたわけではありませんが、出来上がってみればちゃんと社会批評になったな、と思います。今作には本当にあったことをなかったと言い張る人が出てきますが、現実社会にもいますよね。ファクトとフェイクの問題を描けたと思います」
ご自身に才能はあると思いますか。
「今は、才能はこの世に存在しないと思っています。評価される小説って受け手側の文脈と生産側の技術の噛みあいでしかないから。才能って人に帰着するじゃないですか。この人才能ある、って。でも、僕は職場によってすごくダメなやつとされたこともあれば、すごくできるやつとされたこともある。結局、関係性や時代、環境によるものだと思います」
待川さんにとって「小説家になる」とは。
「単純にスケールの問題という気もします。書いたものを誰にも見せない人も、文学フリマで売る人も、賞を取って書店に本が並ぶ人も小説家。小説が届く場所は違うけれど、でも逆に言えば、違いはそれだけかなって。ただ、小説が頭の中にあるだけでは小説家とはいえない。小説は書いて初めて小説になる。これは明確に言えます(笑)」
小説家になりたい人へアドバイスをお願いします。
「それはやっぱり、書きましょう、ですね」
【次号予告】次回は特別版「小説家になりたい人が、芥川賞作家になった人に聞いてみた。」。『ゲーテはすべてを言った』で第172回芥川賞を受賞した鈴木結生さんが登場予定。