
古代中国の戦国時代を舞台にした宮城谷昌光さんの歴史小説「公孫龍(こうそんりょう)」(全4巻、新潮社)が完結した。権謀術数渦巻く戦乱の世を颯爽(さっそう)と渡り歩く青年の半生を、5年余りにわたる連載で描いた大河ロマン。過去の作品とは異なる視点から戦国期の実相を伝えている。
周王朝の権威が失墜した群雄割拠の世、宮廷内の陰謀で命を狙われた王子・稜(りょう)は身分を隠し、趙(ちょう)の国で商人・公孫龍として生きることにする……といっても彼は実在した同名の思想家とは別人。歴史長編で初めて、架空の人物を主人公に立てた。
理由は30年前に出した「孟嘗君(もうしょうくん)」にさかのぼる。戦国中期の斉の国の名宰相の生涯を描いた作品だ。「弱者の味方をして、民衆にも支持された人なんですが、彼が亡くなり、秦の始皇帝が中国を統一する半世紀余りの時間がよくわからない。どの国も主導的な立場にならないなか、どう天下が回っていたのか、ずっと疑問でした」
空白期を代表する人物を求め、孟嘗君と並び、戦国四君と呼ばれる趙の公子、平原君(へいげんくん)を立てようとしたが、任にあたわない。「国が滅びぬよう一生懸命になる好漢なんですが、彼だと一国史にしかならない。ならば思い切って架空の人物を立てて東西南北に動かしてみようと思ったんです」
商才にたけ、人品すがすがしい公孫龍の周りには商人や職人、武人ら多くの仲間が集う。やがて燕(えん)の昭王、趙の恵文王、「先(ま)ず隗(かい)より始めよ」で知られる学者・郭隗らに信頼され、歴史の転換点となる数々の事柄に関わっていく。
「謎めいた歴史の現場に彼を送り出し、私がリポーターのように後を付いていく。ホームズとワトソンみたいなものですね」
大きな謎の一つが、滅亡寸前まで追い込まれていた北国の燕が、秦と並ぶ大国・斉の首都を陥落させた戦いだ。燕の将軍で斉攻略の立役者・楽毅(がくき)についてはすでに大作をものしている。だが、「当時はまだまだ史料の読み方が浅かった」と振り返る。
公孫龍は商人の立場から、燕の殖産振興に助力する。染料になる「燕支」と呼ばれる草を商人に広め、「燕脂(えんじ)」色をはやらせる。工業国だった趙の技術者と渡りをつけて製鉄業を興し、農具や武具の改良に道をひらく。
「楽毅が率いた武の力だけで斉に勝てたわけではない。一つの国が武力を生み出すには、下からの積み重ねが必要です。商業や工業について文献を調べ直すことで、過去の作品にない庶民の視点を小説に取り込めた」
縦横無尽に人と人とをつなぎ、群雄のパワーバランスを保つ公孫龍。物語終盤、楽毅が〈これほどのことができる者は、昔、ひとりいた。それを天子という〉と発する場面がある。
「人を動かすのは簡単なんです。自分の欲を捨てればいい。そうすると必ず人がついてきて、天下は動く」
周から秦の間の春秋戦国時代については多くの物語を書いてきた。宮城谷さんは春秋期を、孔子をはじめとした思想に縛られた時代という。
「一方で戦国は思想の制約がないから、自由で伸びやかではあるのですが、人々が欲望の塊になっちゃう。そんな欲ばかりの世に、無私の人が時代を動かしていく。今までとは違った歴史小説になったかなと思います」(野波健祐)=朝日新聞2025年3月5日掲載
