鴻巣友季子の文学潮流(第27回) 「水脈を聴く男」と「サイレントシンガー」 分断と対立の時代に読む「耳を澄ます」二つの物語

いま日本も世界も大きな分岐点にあるだろう。分断と対立と争いのなかで人びとは他者の声に耳を塞ぎがちになる。今月は、不思議な力をもつ異能の人を描く二つの物語を読みあわせたい。ザフラーン・アルカースィミー『水脈を聴く男』(山本薫、マイサラ・アフィーフィー共訳、書肆侃侃房)と、小川洋子『サイレントシンガー』(文藝春秋)だ。
どちらの小説も自然や水と共存、共鳴しながらその一部のようにして生きる主人公が登場する。そして二人に共通することは「耳を澄ます」ということだ。
アルカースィミー『水脈を聴く男』はアラビア語圏の文学賞の最高峰とされる「アラブ小説国際賞」を2023年に受賞した。物語の舞台はアラビア半島の小国オマーンの村。時代はオマーンの近代化が始まる以前の、20世紀初頭から中頃と推測されるという。ここに描かれるのは干ばつと闘いつつ自然と共にあろうとする信心深い人びとの姿だ。気候変動や水資源の枯渇という社会問題の面からも関心を持たれるだろう。
あるとき、マリアム・ピント・ハマド・ワッド・ガーネムという長いフルネームの女が井戸の底で溺死した。水に頭を漬けたときだけ激しい頭痛が緩和するため、井戸に呼ばれるようにして転落したのだった。彼女は子どもを宿しており、無事に(サーレム)生まれたこの息子はサーレム・ビン・アブダッラーと名づけられ、母のおばの一人ガーゼヤ・ピント・ガーネムが母代わりとなって育てる。
寡黙なサーレムに特殊な能力があることがわかってくる。地に耳をつけて水脈を探り当てることができるようなのだ! 「お父さん、地中の水の音が聞こえるよ」と最初に彼が言ったとき、父アブダッラー・ビン・グマエルは中耳炎の症状かと思ったが、そうでもないらしい。ところが、この子の言うことが本当だとすると、地底人に話しかけられているのではないかとか、人にあらざるジン(妖霊)の取り替え子なのではないかなどの噂が立ち、共同体から疎外されてしまう。
そうしてサーレムの母が溺死してから15年、前代未聞の干ばつの夏が訪れたとき、彼の異能が村を救うのだ。それ以降、この少年は「水追い師」として引っ張りだこになる。
降雨に頼らずに水量を維持し分配するにはどうしたらいいか? ここで、村人は古くからあった「地下水路(ファラジュ)」という灌漑施設の建造を思いつく。現在のオマーンは水道が整備されているが、いまも約3000のファラジュが存在し、農村部では農業用水や伝統的な生活様式の維持のため、重要な役割を担っているそうだ。水利権は売買、貸借、相続もできるものでもある(大川真由子、本書巻末解説より)。
ファラジュによって村は水を溜めることが可能になった。しかしここに一つの権力構造と「水利権」というものが否応なく生まれた。水は地域の生活の命脈となる。「マッドマックス」のイモータン・ジョーが地下水を汲み上げて独占管理・コントロールすることで独裁体制を築いていたことが思いだされる。
しかし『水脈を聴く男』の村ではこの近未来ディストピアとは違い、水利権は売買や貸借できても、水の恵みは自然の巨大な循環の一部であり、人間が破壊し完全にコントロールしていいものではないと考えている。
サーラムは母が井戸水で溺れ、父も水路の崩落事故で亡くすが、水を畏れこそすれ恨んではいない。水には、地表近くを流れて「取りにおいで」と言っている「気前の良い」水もあれば、水量豊富のように見せて欺く水もあるという。この水追い師は岩の奥を流れる、最もたどりつき難い湧水の音にいちばん魅了される。本作の主人公の一人は水とその流れそのものなのだ。
小川洋子『サイレントシンガー』は、大きな舞台で万雷の喝采を受けるような歌手の話ではない。作者にしか書けない「どこにもない世界」の哀切きわまる物語である。
ひっそりと森の奥に住む少女リリカの声は、「沈黙と歌声が抱き留め合っている」ようであり、「風そのものだった」という。本人も「森の風は誰かに称えてもらうために吹くわけではない」、「歌は分ち合うもの」だと思い、自分を空っぽにしてひとのために歌うのだった。
彼女をここ”アカシアの野辺”に連れてきたのは祖母だ。リリカの母が自らの毛髪で首を絞めて自殺した後、祖母が孫を養っていくために、ここで雑用係の職を得たからだった。そこは当初は”内気な人の会”と呼ばれていたコミュニティで、会員たちはいたって寡黙であり、「指言葉」で話した。いまも相変わらず静かな、静かな、暮らしが営まれている。
リリカが初めてなにかのために歌ったのは『羊のための毛刈り歌』である。彼女の声は野の片隅に咲くスミレのようにさり気なかった。そののち老いた介護人の臨終の場でドボルザークの「家路」を歌い、それをたまたま耳にした役場の職員から、夕方にスピーカーから流すこの曲に歌をつけてくれと頼まれる。
19歳になっても、リリカの元には目立たない歌の依頼ばかりが舞い込んでいた。歌う人形ポピーちゃんになり代わって歌う仕事、アシカショーでアシカのふりをして歌う仕事、5秒にも満たないコマーシャルソング、少年のお葬式で歌うモーツァルトの「スミレ」……。どれも人の邪魔をしない声だという理由で選ばれたのだ。
歌のストーリーと並行して語られるのが、「つがい」のモティーフだ。リリカが9歳のころ、ある男の子が森で行方不明となり、発見されない彼のために、リリカの祖母が木切れで女の子のいびつな人形を作った。男の子が寂しくならないよう遊び相手を作ってあげたのだ。
それから祖母は次つぎと人形を作るようになり、森の湧き水の池畔に密かな人形の公園ができあがる。祖母は「完全なものは、自然にしか作れないんだからね」「余分、失敗、屑、半端、反故、不細工……そういう不完全なものと親しくしておかなくちゃ」と言う。これは小川作品に一貫した世界観でもあるだろう。
あるとき二頭の羊の角が絡まって外れなくなる。これもつがいのモティーフの一つだ。二頭は離れられないまま、人形の公園の中に佇んでいる。ただし一頭はすでに命がなく、頭だけになっていた。甘美にして残酷な、作者ならではの筆致である。
さて、リリカにもつがいの相手が現れる。車の料金所の男性と親しくなり、秘密の人形の公園にも案内する仲に。彼はふしぎな趣味を持っていた。新聞のスクラップブックのようなものを見せてくれるが、その記事は彼が新聞の活字を緻密に真似て書いたもので、架空の「未発表小説」についてのストーリーが綴られていた。
その作中作は小川洋子の、世界の端っこでそっと異彩を放つ人たちを描いた『不時着する流星たち』の短編のようだ。ここから虚構の純度がぐっと増していく。料金係さんが選んだ作家には、カフカ、エミリー・ディキンソン、ブロンテ姉妹、シルヴィア・プラスなど、生前は不遇だった書き手が多いようだ。
料金係さんの綴る記事も卓抜なのだが、それを基にリリカが膨らませる夢想が小川文学の真骨頂と言っていい。眠れない夜に料金係さんを想い、彼が書く(かもしれない)未発表小説を夢想する。『不時着する流星たち』にも登場したローベルト・ヴァルザーの原稿は、ある農夫の祖父の杖の把手から出現する。
夢想は作中作中作のような形になり、元々どこにもない世界のなかでさらにどこにもない物語が展開する。
この作家たちは作品は表に出そうとしないが、内面では自己とさかんに対話している。もしかしたら、他人とほとんど話さない”アカシアの野辺”の人たちも同じなのかもしれない。このリリカの夢想部分は過去形ではなく現在形で書かれることで、そのいっときの儚さが”饒舌”に表現されている。
美しく、なのにだれも振り向かないような声で歌いつづけたリリカの一生は、それにふさわしい終幕を迎える。あるときひどい土砂崩れが起き、地下の水系が変化か湧き水の量が減って、藻が異常繁殖すると、リリカは根気よく藻を掬いつづけた。池の中から絡まった二頭の羊の骨が姿を現し、それに誘われてリリカは……。
失われたものへの哀悼に充ちた物語だ。彼女は自分の声を聴かせるより、ひとの心と森のざわめきを聴くことに努めた。それは『水脈を聴く男』のサラームにも相通じる生き方だろう。「ひとが自己との対話をやめ思考を停止することは、他者の声に耳を傾けなくなること同じである」と、ハンナ・アーレントは言ったのではなかったか。