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「橘の家」書評 授かりたい、木を拝む女性たち

評者: 青山七恵 / 朝⽇新聞掲載:2025年08月23日
橘の家 著者:中西 智佐乃 出版社:新潮社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784103551126
発売⽇: 2025/06/26
サイズ: 18.8×2cm/160p

「橘の家」 [著]中西智佐乃

 主人公の一家、守口家の庭には由緒不明の古い橘(たちばな)の木が生えている。この木を大切にするという条件で夫婦は土地を安く買い、家を建てた。やがてその木は子を授ける不思議な力があると評判が立ち、妊娠を望む女たちが次々訪れる。いつしか「橘の家」と呼ばれるようになったこの家の数十年間の物語は、一本の橘の木を起点に人間が人間を産み増やしてゆく営みの一画を切り出し、その陰に蠢(うごめ)くものを生々しく浮かび上がらせる。
 親二人子二人の一家族の物語でありながら、父親の存在は夫婦間の性行為の場面以外でごく希薄であることは象徴的だ。生殖には男女両方が必要でも、そこに至るための工夫や祈りの領域は対等に折半されず、子を求めて橘の木を拝みにくるのはほぼ女だけ。思春期を迎えた息子も、女たちの露骨な欲望や切迫感に耐えきれず家を出てしまう。一方娘の恵実(めぐみ)は幼い頃から母と一緒に女たちを迎え、橘の力の媒介役として彼女らの腹に触れ続けてきた。時には叶(かな)わぬ妊娠を悟ることもあり、後ろめたさから恵実は女たちの顔から目を背け、腹だけに集中する。個別の事情を超越し、ただ授かりたいという渇望だけが目の前に陳列されている、この強烈さと息苦しさ。それでも時が経てば、戸惑う傍観者であった恵実自身もその渇望の当事者になり、女たちと同じ苦しみを生きるようになる。
 なぜ人間は子孫繁栄を願うのか。作中何度かこの問いが提示される。しかし本書が露(あら)わにするのは、人間が人間を産みたい、増やしたいと望む執念の根強さというより、その理由のなさだ。なぜ、どうして、という問いに応える科学や歴史の堅牢な言葉をすり抜け、物語の言葉はもっと曖昧(あいまい)で頼りない、広大で暗いうろのようなところへ滑り込んでいく。誰の意思にもよらない、産み生まれるという積年の繰り返しの気配だけが残るそのうろの深さに、戦慄(せんりつ)を覚えながらも魅せられた。
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なかにし・ちさの 1985年生まれ。小説家。本書で三島由紀夫賞。著書に『長くなった夜を、』『狭間の者たちへ』など。