彼らの戦いは終わっていなかった。米占領下の沖縄で米軍基地から食料などを奪う「戦果アギヤー」と呼ばれた若者たちを活写した直木賞受賞作「宝島」。映画化でも話題の同作のアナザーストーリー6編を、真藤順丈さんは「英雄の輪」(講談社)にまとめた。
真藤さんにとって「宝島」は「作家としての組成みたいなものが変えられてしまったような執筆だった」という。
地霊のようなものが集まり、うちなーぐち(沖縄語)で沖縄を語るような文体を「宝島」で生み出した。「題材としても、我々の生きる現代まで、地層が重なり、つながっている」。沖縄の人たちからの声もあり、2018年の刊行後も、同じ世界観の作品を散発的に発表してきた。
沖縄に行くと、錯覚を抱く。戦果アギヤーだったグスクがあそこの酒場で飲んでいるかもしれないな。彼らの幼なじみで小学校の先生になったヤマコと今、すれ違った気がする――。登場人物が実在の人になってきている感覚がある。
真藤さんが「宝島」の後、どうなったか一番気になっていた人はヤマコだった。独身でいるのか。戦果アギヤーのリーダーだったオンちゃんへの思いは……。
書き下ろしの「ナナサンマル」には、そのヤマコが登場する。沖縄で車の対面交通が右側通行から左側通行に変更された1978年7月30日の出来事が題材だ。
「宝島」の続きを書くにあたって、ナナサンマルは「沖縄の歴史の中でも象徴的な一日」だった。「登場人物たちがどう感じるのか。沖縄において基地問題はどのように変容していくのか、といったところから構想を始めた」
沖縄返還後も基地は残った。だから、基地の中の交通ルールが本土と同じになっても、空は米占領下の「アメリカ世(ゆ)」のままで、ヤマコたちの頭上に米軍機は飛び続ける。「そこにある矛盾や欺瞞(ぎまん)をどう表現できるか」と考えた。
「ナナサンマルは、今の沖縄の起点だけど、『宝島』の時代から続く歴史の線で見ていくと、大きな分水嶺(ぶんすいれい)にはなっていない。それは書き記しておきたかった」
生まれも育ちも東京の自分が、沖縄を書く。「宝島」執筆時にも感じた葛藤はいまだにあるという。でも、腫れ物に触るような扱いをして口をつぐむのではなく、「作家として持ちうる技術や能力をすべて使って、図抜けて面白い小説を書く」という覚悟がある。
大切なのは、尊重されるべき当事者にどれだけ近付けるか――。「やっぱり小説家っていうのはそういう仕事だと思う」
俯瞰(ふかん)する鳥の目線ではなく、地べたをはい回る野良犬のように、沖縄の路地を歩く。いくつもの登場人物の声がせめぎ合うように物語を進めていけるところまで、自分の中に声をため込んでいく。
戦後80年を迎えた中、次世代に残していくべき沖縄の物語をどのように継承するか。「宝島」の世界を書きつなぎながら、作家としてできることを自問自答している。(堀越理菜)=朝日新聞2025年9月24日掲載