ISBN: 9784910590301
発売⽇: 2025/08/30
サイズ: 18.8×4cm/712p
「匿名への情熱」 [著]和田純
「Sオペレーション」という名を沖縄返還史研究を専門とする研究者から聞いて「ほう、戦後史も佐藤栄作内閣のベールをはぐところまで来たか」との感慨を持ったのが、1980年代半ばのことだった。以来40年がたち、戦後80年の年に、Sオペの主たる楠田實(みのる)と戦後政治との関係を明らかにする大著が現れた。
最近、戦後史研究は、オーラル・ヒストリーの手法や日記、覚書、資料の発見と解析が進み、戦後史の〝謎〟が次々と明かされていく。この国は秘匿を美徳とする慣習に長きにわたって流されてきたから、1990年代以降の戦後史発見には目を見張るものがある。ただ発掘すればそれでよしということではなくなった。あくまでも事実の検証に勝るものはないが、政治に手入れをした者の伝記的物語の展開が、戦後政治史のさらなる沃土(よくど)を開拓する可能性を生むことになる。
本書はそのために打ってつけと言える。著者は楠田に20年ほど仕えた和田純。すでに楠田の日記や資料の編集にも携わった。和田の文章は実証的でありつつ、時に楠田の内面にぐいぐいと迫り、時に遠目に見るスコープをとる。大著だが、読む者を飽きさせないのは、この楠田への距離感の取り方の見事さにある。
70年代に坂本二郎という未来学者がいた。今では完全に忘れられた存在である。楠田がそれこそ「匿名への情熱」のプロセスで、いかに彼と付き合い、さらに知のサロンの拡大を図ったか、これは貴重な発見だ。佐藤栄作→福田赳夫→安倍晋太郎という明確な一つの保守人脈に尽くしながら、あの平成の政治変革へと進む時代には、竹下登や宮沢喜一にも尽くすという離れワザに目を奪われる。
楠田は人と人をつなぐために、硬軟取り合わせたいくつもの公式・非公式の〝組織〟もどきに関わっていく。国際交流基金との関わりなど、すさまじいものだ。安・竹・宮の時代における楠田の動きは、成否を置くとするならば、彼らの性格をのみ込んだ上で行われ、楠田の「政治手入れ」の仕上がりを意味する事柄に他ならなかった。
じつは新聞の政治部記者から政治家の秘書官を経て国会議員へという、政治遍歴のジャンプに失敗した楠田は、そこから政治社交の専門家という独自のルートを切り開いた。
晩年に一度だけ、楠田の研究会で報告したことがある。その後の食事会で、角福戦争を話題にした時、終始寡黙だった楠田に「あなたにとっては歴史なのですね」とポツリと言われた。その一言は今も忘れ得ない。
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わだ・じゅん 1949年生まれ、神田外語大名誉教授(国際政治)。国際交流基金のロンドン事務所長などを経て、日本国際交流センターに転職。小渕恵三内閣の内閣官房で「21世紀日本の構想」懇談会担当室長を務めた。