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「憲法十七条」と蘇我馬子――聖徳太子「憲法十七条」を読みなおす(下)

日本書紀(岩崎本) 巻第22 巻第24(ColBase https://colbase.nich.go.jp)

「和」の発音は「わ」か 

 「憲法十七条」第一条の「和を以て貴しと為す」という言葉は誰もが知っており、日本の会社の「社是」で最も多く用いられているのはこの言葉だ。しかし、この「和」を推古朝時代にどう訓んでいたかは、実は明らかでない。

 「憲法十七条」の現存最古のテキストは、岩崎本の『日本書紀』巻22であって、この巻は国宝となっている。この岩崎本には、平安初期の訓点が付され、さらに平安中期の訓点、15世紀の訓点が加えられている。それによると、平安初期と中期の訓点では「和」を「ヤハラカ」と訓んでおり、15世紀の訓点では「アマナヒ」としている。

 「憲法十七条」の数多い写本の中には、他にも「和」を「ヤハラケル」、「ヤハラキ」と訓んでいるものがあり、中世には「ワ」と漢字音で訓んでいる例が増える。中には「ニコヤカナル」としているものさえあるが、どうだろう。「わをもって」だから格調高い感じを受けるのであって、「アマナヒ」では意味がわからないうえ、「ニコヤカナル」では具体的すぎて有り難みがないのではないか。

 いずれにしても、「わ」と訓まなければ、「和」は音楽の概念が元だということは分からなくなる。また、平安時代には、『日本書紀』はもともと和語で伝えられていた伝承を漢文に直したものと見て、できるだけ和語として読み、古代のあり方を復元しようとして古そうな訓を作り出すこともあった。このため、現存最古のテキストである岩崎本の「ヤハラカ」にしても、推古朝の訓を伝えているかどうか疑わしい。

「憲法十七条」の訓読と和習

 そこで問題になるのが、「憲法十七条」はそもそも訓読されていたかどうかということだ。ただ、当時の百済訛りの漢字音でそのまま「いわいき、むごいしゅう(以和為貴、無忤為宗)」などと読み上げたら、群臣や官人たちは意味が分からなかったろう。たとえ、公の場ではそのようにしたとしても、後で説明する際は、和語でおこなったはずだ。

 それは宣命や祝詞のような形に近いものだったのか、漢文訓読の元祖のようなものだったか。国語学では、訓読は8世紀になってからとする説もあるものの、7世紀後半くらいから成立していったと見る研究者が増えつつあるようだが、「憲法十七条」は推古12年(604)だ。また、その2年後に行われた『勝鬘経』講経では、和語によって説明しただろう。

 実際、「憲法十七条」にしても、『勝鬘経義疏』にしても、訓読文を思い浮かべたうえでそれを漢字に直していった形跡がある。従来は、古代の和語については、『古事記』や『万葉集』を主な材料としていたが、上記の状況は、「憲法十七条」や三経義疏が日本語史の材料として使えることを示す点で重要となる。

「憲法十七条」が想定している「聖」

 今回の本の中で最も議論となるのは、嫉妬を禁じた第十四条が、「聖」は「千載(千年)」にも得がたいが、そうした人物でなければどうして国を治めることができようかと述べている箇所で想定している「聖」は誰かという点だ。

 これまでは、それは聖徳太子だとされ、信奉者は、太子のことを「千載一聖」、つまり、千年に一人の聖者と称えてきた。しかし、「憲法十七条」は有力氏族の長たちから成る群臣たちや、その下で働く官人たちに向けてなされた訓戒だ。

 時の推古天皇の甥であって、その皇女を妃とし、また権力者であった蘇我馬大臣の親戚であってその娘を妃の一人としている聖徳太子が、群臣たちから嫉妬されるとは考えにくい。天皇後継者となる可能性がある皇族が、その第一候補であって推古天皇を補佐している聖徳太子を嫉妬するというなら分かるが。

 「憲法十七条」は第二条で、「篤く三宝を敬え」と述べて仏教尊重を説き、第三条では「詔を承りては必ず謹め」と命じ、王の命令に従うよう説いていた。しかし、仏教に反対する物部守屋大連などの反対を押し切って仏教を興隆したのは馬子であり、また現在の王である推古を推挙して即位させたのは、推古の叔父の馬子だ。

 しかも、「憲法十七条」の直前に冠位十二階が制定された際、馬子は臣下の一人でありながら、冠位を受けておらず、逆に与える立場に立っていた。また、推古朝では群臣の一人として合議に参加するのではなく、その上に立って方向を示唆するようになっていた。となると、嫉妬されがちでありながら国政を導く「聖」とは、馬子以外に考えられない。

「憲法十七条」の真作派と偽作派に共通する前提

 「憲法十七条」は、有力氏族、とりわけ蘇我氏の専横を押さえ、皇室の権威を確立しようとしたものとされてきた。しかし、これは近代になって生まれた図式にすぎない。長らく尊崇されてきた聖徳太子も、江戸時代になると、仏教を批判する朱子学者や国学者たちから、人倫に背く異国の仏教を導入したと非難されるようになった。

 その影響は明治時代になっても残っていたため、太子擁護派が打ち出した弁明が、太子は蘇我氏などの専横を押さえて皇室の権威を確立しようとしたのだ、というものだった。逆に、太子の事績を疑う者は、そうしたことは強大な蘇我氏本宗家が打倒された大化改新以後でないと無理と見、「憲法十七条」には律令制の要素も見えるとして後代の偽作としたのだ。

 しかし、推古と馬子と太子の親族関係を考慮して「憲法十七条」の内容を分析し、また、太子が移った斑鳩と都の飛鳥の間の約20キロを、幅20メートルもの広い道路で斜め一直線に結ぶ太子道(筋違道)の痕跡が発掘されていることを見れば、この三者が一体だったことは明らかだ。つまり、真作派も懷疑派も同じ前提に立って議論していたのであって、その前提そのものが間違っていたのだ。

 「憲法十七条」は虚心坦懐に読むと、おかしな箇所が多く、文章も和習が目立つ。ただ、それは、中国の文章を切り貼りしてすませたのではなく、推古朝当時の状況の中で、苦労しながら試行摸索しつつ書き上げたことを示すものだ。しかも、『日本書紀』の中で「憲法十七条」だけが重要な箇所で2度用いている語法が、『勝鬘経義疏』に4回、『維摩経義疏』に3回、『法華義疏』に1回見えていることが指摘されている。同じ人物が書いたことは疑いない。

 『「憲法十七条」を読みなおす』では、これ以外にも多くの新発見を報告した。「憲法十七条」の研究、聖徳太子の研究、さらには蘇我氏のあり方を含めた推古朝そのものの研究は、これによって新しい段階に入ったと言って良いだろう。