永井荷風新人賞・湯谷良平さん 16歳でひきこもりに。「自分と小説しかない時間がありました」#33
「夜警」を読んだとき、しっとりと落ち着き精練された文章に、主人公が中年男性というのも相まって、応募歴の長い年長の人が書いたのだと思った。だから受賞者プロフィールの写真に驚いた。そこには、高校生くらいに見える応募時25歳の青年が写っていた。このつるりとした肌の若者のどこに、あのような老成された言葉があったのだろう。
「あ、この写真はちょっと前の肌の調子がいいときのやつなんで」とはにかんだ湯谷さんは、入って3か月で高校を辞めたそう。
「中学の頃からその傾向はあったのですが、周囲から悪口を言われているんじゃないかという恐怖が人一倍あって。例えば、職員室に入って、〇〇先生いますかって呼びかけた時、どの先生からも反応が返ってこないことってあるじゃないですか。そこから妄想を膨らませて、みんなに嫌われているんだと思い込んだり」
その後、通信制高校に転学。
「パソコンで授業動画を観るんですが、それがリアルタイムじゃなくて録画されたものなんです。0時に新しい動画が上がるのでそれを4倍速ぐらいにして一瞬で見終わって、あとは一日ずっと暇。スマホも親に禁止されていたので、読むか書くしかやることがありませんでした」
それは読書量がとんでもないことになりそうですね。
「最初はカミュの『異邦人』、ドストエフスキーの『罪と罰』、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』といった王道ものからはじまって、どんどんマップを広げていきました。一時期は芥川賞受賞作品を全部読もうと頑張っていたんですが、60作品読んだところで飽きちゃって(笑)」
誰がいちばん好きでしたか。
「安部公房です。中でも『壁』がとくに。小説は全然わけがわからなくていいんだ、という発見がありました」
読むだけでなく書くようになったきっかけは。
「中学3年生のときに、地元の所沢陸橋を通りかかった時に突然『書こう』と思いました。べつに陸橋が出てくる話でもなく、なぜなのか自分でもわからないです。最初に書いたのは、母親と問題がある中学3年生の少年が女の人に誘拐されて犯人に新たな母性を見出していく、というもの。当時、反抗期だったもので(笑)。大学ノートを横にして書いていたのですが、2~3ページでクライマックスまで進んでしまって、思いつきを連ねたプロットみたいなものにしかなりませんでした」
通信制高校時代はどんなものを書いていたんですか。
「元々モノづくりの衝動から小説を書いていたので、ストーリーというより、いろんな技法を試すことに熱中していました。ガルシア=マルケスがマジック・リアリズムという手法を使っていると知ったらそれを取り入れてみたり」
自分の中で収めず、応募してみようと思ったのはなぜでしょうか。読まれたいという思いがあった?
「そうですね。たとえば、新しい服を買ったときって、外に出て人目に触れたくなると思うんですけど、そういう衝動に近いと思います。自分の小説がどういう形をしているのか他人のまなざしから知りたい。
応募について、はっきり背中を押してくれたのは通信制高校の先生でした。2年生からは週に4日通う通学制のコースに切り替えたのですが、そこで文章を書く授業があって。お題に合わせて論文でも小説でもいいから800字で書く、というものなのですが、提出したらすごく褒めてくれて、『これで食っていけるぞ』と言ってくれたんです。高3の時でした。大学も日本大学芸術学部の文芸学科に進みました。初応募は阿波しらさぎ文学賞。1次選考を通過してネットに名前が載って、それだけでもう嬉しくて。文學界新人賞にも応募したのですが、そちらは箸棒でした」
ハシボウ……?
「箸にも棒にもかからず、ってことです。ゆきのまち幻想文学賞も箸棒。その頃は幻想的なものばかり書いていたのですが、修行の一環でリアリズム小説を書き始めたら徐々に結果が出るようになりました。織田作之助青春文学賞という24歳以下の人が応募できる賞で最終候補まで進み、吉村萬壱先生に選評で褒めていただけて。これはもう嬉しかった! それから、日本大学新聞社主催の日大文芸賞で大賞、社会人になって仙台短編文学賞の仙台市長賞をいただきました」
今年の文藝賞の3次にも残っていましたよね。落選したときの立ち直り方は。
「僕は、落選の準備のために次の作品を書いている気がします」
落選の準備……?
「1000とか2000の応募数の中の1にならないといけないじゃないですか。圧倒的に落選する確率の方が高い。だから、落選前提でそのときにひきずらないように新しい作品に向かっていました」
そして永井荷風新人賞を受賞したのですね。
「最終候補になったとき、『選考会後、受賞者にのみ連絡します』と言われていたんです。その日は名古屋を旅していたんですが、そこで落選がわかったら旅が台無しになるじゃないですか。だから『落ちる、落ちる』って予防線を張っていました。名鉄に乗っているときに知らない番号から着信があって、ググったら慶應義塾大学の番号。でもあまりにも予防線を張っていたんで『落選なんですけどなかなか良かったからまた来年』という電話かもしれないと不安で。いったん熱田神宮にお参りしてから掛け直しました」
ドキドキですね。受賞と聞いていかがでしたか。
「あっぶね、よかった、これで旅できる!と思いました(笑)」
受賞作「夜警」は、中高一貫校の夜間警備員の主人公が「夜の学校に行きたい」といういろんな人の願いを聞き入れ、侵入を手伝うというお話。着想はどこから。
「大学卒業後、警備をやる会社に就職したんです。そこで大学の警備員の仕事をしていたんですが、たまに年配の方が『学校見学したいんだけど』と来ることがあるんです。それはちょっとできなくて、と断るのですが、これを受け入れて侵入させる主人公を思いついたのがはじまりです」
執筆期間は。
「3週間くらいかな。その頃には会社を辞めて無職になっていたので、毎日3ページずつ進めていました」
それは小説に専念しようと思って辞めたんですか?
「それもありましたが、心身の限界でした。夕方から翌日の夜までの26時間拘束で、かつ連勤がつづくこともあり不眠症になって。立哨(りっしょう)という1時間立ち続ける仕事があって、その間は頭の中で構想を巡らせられますし、同僚は年配の方が多く、これまでの人生をオープンに話してくれるので、楽しい面もあったのですが……」
なぜこの作品が受賞できたと思いますか。これまでの自作との違いは。
「最初と最後で文体が違う、と友人に指摘されたことがあって、テンションを一定に保つために、書いている間は同じ音楽しか聴かず、お酒の量も毎日そろえ、悲しい場面も山場も淡々と書いていました。選評でひらがなを多用したことを好意的に取り上げていただいたのですが、それもトーンの統一をとりやすくするため。黒田夏子さんの『abさんご』に触発されたのも大きいです。それから……」
湯谷さんは言いよどみ、いくつかの前置きを重ねたあとにこう言った。
「もうひとつ。父と母のために書こうと思ったというのが今までにないことでした。じつは昨年、身内を亡くしたんです」
もしかしてそうなのかなと思っていました。誰か大切な人を亡くした人のために書かれた小説なのかなって。とくにラストは湯谷さんの祈りのようなものを感じました。
「あのラストは明確に意識している作品があって。ジェイムズ・ジョイスの連作集『ダブリナーズ』の「死せるものたち The Dead」という一篇です。選評でも青来有一さんが指摘してくださいました。ジョイスは、生者と死者に平等に雪が降り積もるというラストなのですが、僕は父と母に向けて書くなかで、それではなにか伝わらない気がして。死者が自由に飛び回り、むしろ死者が元気でいる、そんな想像の余地があるラストになりました」
ご両親はこの作品を読みましたか。
「よく書いたね、と言ってくれ、みんなで受賞のお祝いに飲みに行きました。その時、酔っぱらった父が言ったんです。『俺みたいなのが父親だから、受賞できたのはあるな』って。たしかに変わったところのある父で、母もまた輪をかけて自由人。だから自分もマイペースに小説をやってこられたと思うので一理あるなって。少しですけど、両親を調子に乗せてあげられてよかったです」
選評では「応募時の作者の年齢が二十五歳と知って驚いた」(青来有一さん)、「フタを開けたらこの作者は二十代の若さなのにもびっくりしました」(持田叙子さん)と、私同様、みなさん湯谷さんの若さに驚嘆していました。ご自身ではどう感じていますか。
「自分としては15歳から10年書いているので、そんなに今の自分を若いと感じていないのですが、10代の頃はたしかに考え方に若さがありました。人間を決めつけるようにしか書けなかった。でもさまざまな作品や人、出来事に触れるうちに、物事がグラデーションの中にあると気づいて。すると、今度はその中で選び取り、決め切ってしまうことが怖くなりました。この先、もしかしたらだんだん書けないものが増えてくるのではないかと恐れています」
たしかに「書く」ということは、無数の選択肢の中で選び、文字にして固定するという行為ですもんね。これから先は、どんな小説を書いていきたいですか。
「失敗したいな、と思っています。昔、モノ作りの衝動で書いていたときは、自分の手に余るものもちゃんとチャレンジして、ちゃんと失敗していたんですよ。でも今は、破綻が怖くて安全な方に流れてしまう。もう一度、無謀な若さを取り戻したい」
湯谷さんにとって「小説家になる」とは。
「人生にもうひとつわからないことが増えた。僕の今の自己認識は〈小説家〉じゃなくて〈無職〉なんですよ。賞をとっても、もし今後小説で評価されるようになっても、自分っていう人間が何者かはわからないままじゃないかな。ひとから小説家と呼ばれるようになっても、それを内在化することがずっとできない気がします」
でも小説家になろうとして応募していたんですよね。そこには湯谷さんの小説家像があったのでは?
「うーん、それも確固としたものではなくて、みんなが色々書いているそのグラデーションの渦の中に自分も飛び込みたい、という気持ちです。そこに片足を突っ込むことはできたのかなと思うので、そこは純粋に喜びたい」
高校を3か月で辞めて、スマホなしでずっと家の中にいて、もし小説がなかったらどうなっていたと思いますか。
「嫌な予感しかしないですよね。あの時、誰か話せる人もいなかったし、ひたすら自分で問いかけて自分で返す毎日だった。あの時の癖が今の小説の中にも残っている気がする。自分と小説しかない時間。それが僕を生かしてくれたのは間違いないです」
【予告】次回は文藝賞を「BOXBOXBOXBOX」で受賞し、同作が芥川賞にノミネートされた坂本湾さんが登場予定。