ISBN: 9784781625089
発売⽇: 2025/11/20
サイズ: 19.5×1.9cm/280p
『「なむ」の来歴』 [著]斎藤真理子
「なむ」とは韓国語で「木」のことである。現代韓国文学の翻訳者として知られる著者が、学生時代にはじめて覚えた単語だ。一九九〇年代初頭に留学したソウル、その後移り住んだ沖縄、そして戻ってきた東京、故郷の新潟。本書には、「いろいろな木の育つ土地を尻取りのようにして歩いてき」た翻訳者/詩人による、土地の記憶、言葉をめぐる生きた思考が綴(つづ)られている。
韓国はとても詩が読まれる国で、冒頭に置かれた表題作にも、著者自作の詩がいくつか挿入されている。たとえば、韓国への旅立ちに備え、蔵書を売りに出したときのことを書いた詩。古本屋のおじいさんに向かって、「本って、本当に重いですよね」とこぼすと、おじいさんは答える、「さようでございます もともと木でございますからね」。
そうだ、本は木なのだ。この無題の詩を前にして、いまさらながらにはっとする。人々が言葉を受け渡し受け取るその場所は、すべて「なむ」から生まれてきた。木には時間が宿っている。沖縄の生命力旺盛な木々は苛烈(かれつ)な地上戦の影をはらみ、新潟のボトナム通りに並ぶ柳には、帰国事業で故郷に向かった在日朝鮮人たちの足音が響く。ある土地、ある「なむ」の内に折り畳まれた時間が、言葉の滴りを受け日差しにほころぶ葉のように広がり、枝を伸ばしてゆく。
ハン・ガン作品をはじめ、著者の訳による韓国文学には、何度も心揺さぶられてきた。しかし斎藤さんは、翻訳者であるより先に、まずは詩人であった。本書でその来歴にふれ、だからなのか、と腑(ふ)に落ちた。いわく翻訳者の役割とは、「物語がスムーズに言語の壁を超えられるよう、はしごをかけてあげる」こと。でもそのはしごをかける身体には、これだけの詩が通い、生活を抱きこんだ「なむ」が根付いている。海の向こうの声がこんなに近くに聞こえるのは、だからなのか。
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さいとう・まりこ 1960年生まれ。翻訳者。『本の栞(しおり)にぶら下がる』、訳書にハン・ガン『別れを告げない』など。