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「バウムガートナー」書評 老いたヒーローの映すアメリカ

評者: 石井美保 / 朝⽇新聞掲載:2026年02月21日
バウムガートナー 著者:ポール・オースター 出版社:新潮社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784105217235
発売⽇: 2025/12/17
サイズ: 19.1×2cm/216p

「バウムガートナー」 [著]ポール・オースター

 一人の男の、移ろいゆく日常が淡々と描きだされる。
 身体はままならず、想念は浮遊する。事故で亡くした妻アンナの思い出、遠い日の母との会話、青春の光とベトナム戦争の影。所々に挿入される亡き妻の詩と短い散文が、過ぎ去った時代を別の角度から映しだす。
 思うにまかせない身体に翻弄(ほんろう)されるバウムガートナーの姿は、おかしくも切ない。現象学者の彼にも、自身の老いはどうすることもできない。行間から現れてくるのは、タフでも神々しくもない、くたびれた男の姿だ。そんな彼を、書き手は「我らのヒーロー」と呼ぶ。
 年老いて一人、過ぎし日の幻を抱いて生きるバウムガートナーは、そのままの姿で立ち向かっているのだ。何に? MAGA的なもの、「ホワイトハウスにいる狂えるユビュ王」の象徴する、残忍で暴力的な世界に。
 両親に連れられて行ったワシントンのうらぶれたホテル。アンナと過ごしたニューヨークの狭い部屋。列車の中でみた慎(つつ)ましい母娘。そうしたイメージから立ち上ってくるのは、もうひとつのアメリカ、偉大ではなくマッチョでもない、さまざまな来し方と壊れやすい身体とそれぞれの喜怒哀楽を抱えてよろめき進む、一人一人の人生からなるアメリカの姿だ。
 白人による侵略に抗した勇者の名にちなんだミドルネームをもち、旧大陸で起こった殺戮(さつりく)の記憶を母方の姓にとどめ、この国で生きてきたバウムガートナーの、いまや老いぼれて、それでもなお思考しつづけ、感情に揺さぶられ、覚束(おぼつか)ない足どりで進んでいくその勇姿は、哀(かな)しくて愛(いと)おしい。我らの隠れたヒーロー。
 舞台の上から退場した後も、彼の人生は続く。たぶんずっと。訳者のあとがきによれば、著者は亡くなる前に、この本の朗読版をみずから吹き込んだという。物語の最後、新たな始まりを告げるかすれた声が、私の耳にも届いた気がした。
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Paul Auster 1947年生まれ。米国の作家。『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』『4321』など。2024年死去。本書が最後の小説。
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柴田元幸訳