MONO NO AWARE 玉置周啓さんが選ぶ4冊 生活の中の感覚を、本が呼び起こす
――まず1冊目は、福田恆存の『人間・この劇的なるもの』から。
これは4冊の中で唯一、大学じゃなくて、25ぐらいの時に、渋谷の「喫茶ライオン」っていう喫茶で出会いましたね。たばこが吸えて、ジャズかクラシックが流れる場所で、いつも歌詞を書くんですよ。行き詰まったら、後ろに本棚があって、ざっくばらんに本が平積みされてて、一番上に置いてあったのを手に取ってパラパラ読んだら、気づけば閉店の時間になっていて。僕は間違ってそれをポケットに入れて持って帰って、帰りの電車で全部読んで、すごいもの読んじゃった!みたいな感覚になりました。当時は毎日ライオンに行ってたんで、次の日そっと戻しておきました。でも、その「取っちゃった」ことにも気づかないぐらい入っちゃった。
――どんなところに強く引かれましたか。
前半はハムレットがいかにすごい劇かって話をして、途中から人間の自由の話になっていく。人間はみんな「自由」という言葉を仕事からの逃避とか、何かをやらなくていい理由として使ってばかりいるけど、結局、本当の自由は手に入れられないんだよ、みたいな話になってくる。旅行に行けば、今の仕事を放棄すれば自由なのかといったら、結局そんなことはなくて、その先にあるのはただの孤独だ、っていう話になってくるんですよね。
つまり、「やだやだ、自分はこうしたいんだ」って、自分が見える世界を大事にしていけばしていくほど、付き合ってくれる人が減って、孤独になっていく。孤独になったやつって結局、社会への復帰を望んじゃうようにできてる。それは自由じゃないじゃん、じゃあ自由は何なのかって話になっていく。「真の意味における自由とは全体の中にあって、適切な位置を占める能力のことである」。ここで衝撃を受けて。自由というものを、世界から脱出すれば得られるものだとみんな思ってるけど、そんなユートピアないんだよと。個人は部分的に全体の中にいて、その中で自由を演技している。
――宿命的な話ですよね。
その宿命っていうのは、ハムレットから持ってきてる。ハムレットは、父ちゃんが殺されて、その父ちゃんの弟がいかにも悪そうなやつで、そいつを殺すんだ、ってことで話が始まっていく。観客はハムレットの物語を知っているし、復讐を誓うハムレットがどう死ぬんだということが分かった状態で劇を見始める。それを見届けて、観客が語り継いでいるっていう。
これって、ある人生の流れをみんなが体を動かして表現しているにすぎなくて、演じているっていう点ではフィクションなんだけど、人間も実生活で自分の人生を演じているのではないか、って話になっていく。そういうところは、自分にとって人間もフィクションを演じているのである、という感覚につながっていきました。
――2冊目は坂口安吾の『堕落論』です。人間は内在的に根本から堕落しているから、むしろ大丈夫だという、人間主義的なところが見える一冊です。
大学時代、僕は坂口安吾がかなりまっすぐ好きだったんですね。たとえば法隆寺を壊して駐車場にしろ、みたいな極端な話も出てくる。もちろん、歴史の価値を知らなかったとかの話じゃないんですけど、土地が限られている以上、山を切り開くよりは法隆寺を潰した方が早いと。生活の中で見落としているものがあるはずだ、という感覚にはすごく共鳴したんです。
僕は大学進学で東京に出てきたんですけど、あとから、家賃そのままでもっと広いところに住む方法があることに気づいて。僕は、そういう極めてレベルの低い自分のエピソードと、こういう読んだ本を無理やり接続して考えるのがもともと好きで。その最たる例が坂口安吾だった、という感じです。
――自己投影の一種として、自分が身体として経験したものと、文章の中で多分その想像力が結合した、という感覚に近い気がします。
そうですね。坂口安吾って、基本的にかなりリアリズムの人なんですよ。戦前はどうだったか知らないけど、たぶん戦後になって、絶対そうなったところがあると思うんです。でも、理想を冷笑しているわけでもない。人間は不完全だし、納得できないことがたくさんある。その前提で、生活を見ている感じがする。そのリアリズムが好きです。
――今読み返すと、人間が根本にあって、人間の不完全さを見守るようなところに、玉置さんも共感されているのかなと思いました。それこそ、変な人を見ても笑っちゃう、またそれを前提にするリアリズムが、 MONO NO AWAREの曲でも垣間見えるところがある。
そうですね。僕は『堕落論』で印象に残ってるのが、最初の「FARCEに就て」と、その後に入っている「文学のふるさと」です。そこに「赤ずきん」の話があるじゃないですか。赤ずきんって不条理すぎる。か弱い女の子がおばあちゃんだと思って近づいた存在が、まさかのオオカミで、そいつに食われて死んで終わる。日本の絵本だと、その後につじつまを合わせるようなエピローグを付け足すんですけど、元の物語は本当に「食われて死んだ」で終わるんですよ。坂口安吾は、そこに「文学のふるさと」があるんだ、ということを言うわけです。
つまり、赤ずきんを読んだ人間の心の中には、子どもがオオカミに食われて切ないとか、悲しいとか、それ以上の、本当に「氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」が感じられるって、それがすごく僕は分かっちゃった。赤ずきんがオオカミに食われるその不条理を、下手をすれば美しいと感じてしまうレベルの悲劇として受け取る。
他にも、芥川龍之介の逸話では、芥川の晩年に農民の男が「読んでくれ」と持ってきた原稿に「農民の夫婦のもとに子どもが生まれたけど、食わせるほどの余裕が家にないので殺して埋めちゃいました」という話が書かれていて。芥川は「こんなこと本当にあるのかね」って聞いたら、その農民の男が「それは俺がしたのだがね」って答える話がありました。芥川が絶句している間に、もう農民は帰ってしまっていて、窓の外には「初夏の青葉がギラギラしていたばかりだ」と。それも同じことだと感じたんです。完全に自分の想定外のことが起きて、自分と社会の信頼が丸ごと切断されちゃうような感覚というか。
つながっていたと思ってたものが実は切断されて、孤独にまみれるっていう感情。それって完全な孤独で、むしろ清々しい。でもポジティブな気持ちではない。単純な言葉で言うと、事実。そこにはもう物語性も何もない。事実、赤ずきんは食われただけだ、とか、事実、その子は生まれたけど殺されてしまった、とか。そういう感覚に僕はもともと共鳴しやすいんでしょうね。
――バンド名と同じく、日本文学の「もののあわれ」みたいなところがあるのかなと思いました。人間はもともとこんなもんだから仕方ない。でもなぜかちょっと見守ってくれている感じがある。それぐらいの、ちょっとだけの温かさ、という感じでしょうか。
そう。だから僕は、イデオロギーや主張が取り払われた、実際の人間の生活はこうだよな、みたいな感覚を舞台にしたい。ただ感動できる物語なんかいくらでも作れるし、悪役を立てればバトルも巻き起こせる。でも、物語って生活そのもの、人間をちゃんと書くべきだって、俺は受け取ったんです。どんな生まれや国が違ったとしても、同じように感じてしまうぐらい、人間の真ん中にある感情、みんなの中にある「ふるさと」みたいなものに共鳴するようなもの、それを抽出するのが目標です。
――5thアルバムの「ザ・ビュッフェ」は、坂口安吾にちょっと近いところにあったりしますか。
そうですね、あれは、「FARCEに就て」と近い感じはあります。もうほんと、人間のありのままの欲とか、だささとかを笑うっていう方法しかない。特にコロナ禍の中で生きてきた日本人としては、ここで自分の脳内の思考が先鋭化していくのは、むしろ良くない。音楽って逃げ場でもあるんで。特にコロナ禍以降は、音楽と政治の交配が進んだというか、あれはいいことでもあったと思うけど、僕としては生きづらい要因の一つになってました。だから、そういう政治や娯楽を超えた状態のことを歌いたい、それは「飯を食う」ってことかなと思いました。
――3冊目は榎本俊二さんの『ムーたち』。どんなところに惹かれたのでしょう。
これは20歳くらい、バンドを始めた頃に友達に勧められて読んだ本です。漫画に感じる魅力として、その大きなドーンという効果音付きのアクション的な動きよりも、書かれている文章とか、何を表現したくて書いてるのか、みたいな方に、もともと興味があったんですよ。その一番ソリッドな形が『ムーたち』だと思っていて。作家の脳内を、漫画以外では表現できない手法で漫画化している。映像では多分面白くない。絵の感じも、そのシュールな感じと相まってすごくいいと言いますか、そぎ落とされてる感じもあって。
あと、お父さんと息子の話で、お父さんの顔が全コマ違う。二人劇だから息子じゃない方は全部お父さんなんで、どんな顔してても全部通じる。そうすると、同じ顔ばっかり見てて疲れるな、みたいなのがなくなって、脳の疲労がなくなるところもあったんです。なんで漫画って人間の顔が一定で、同じ人物が喋っているということを読者が理解しやすいように促さなきゃいけないんだろう?と思うんです。
――一番好きなエピソードは?
たとえば、「セカンド自分」「サード自分」みたいな発想ですね。なくし物をした息子に、お父さんが、「じゃあまずセカンド自分を作ってみよう」と言って、それって要はメタの自分なんですけど、セカンド自分を作って空から世界を見渡したら見つかるかもよ、とアドバイスをする回があって。自分を複数化して、別の視点から世界を見る。それが、自分の中にあった感覚とすごく重なったんです。自分の中でのメタ認知というか、自分はこう見ているな、っていう感覚でした。
保育園の頃、昼寝するときに、保育園の先生がのぞき込むような小窓がついてたんです。僕は寝れない間、ずっとその小窓を見ながら、先生があそこから見たときに、こちら側がどう見えているのかを想像するのが癖だったんですけど、それとすごい重なってて。世界を複数の視点から同時に見るのが好きだったことを、思い出させられたというか。
――4冊目は志村正彦さんの『志村正彦全詩集 新装版』です。フジファブリックがお好きだからでしょうか。
フジファブリックは高校の頃から聴いていて。詩集って、自分がそういうモードになっていないと、なかなか入っていけないところがあるけど、最近、折坂悠太くんが『君は私と話したことがあるだろうか』っていう詩集を出していて、歌から来る詩集を読むのも面白いかなって思って。
――詩への憧れもありますか。
あります。ただ、詩の世界って独特なイメージがあって、その世界に入っていくのも常駐するのも、ハードルが高くて、全く違う言語を一から習得するような感じがある。10年ぐらいバンドやった結果、少なくとも俺は、それをやっていると、そのうち物が作れなくなるんじゃないかなって思ったんです。でも、志村さんの詩集は少し違った。声から呼び戻される文字、という感じがしたんです。
――曲を知っているからこそ、文字が声として立ち上がってくる。
そうなんです。自分の目でただ読むだけじゃなくて、すでに知っている歌声によって文字が立ち上がる。その体験が面白かった。自分もいつか、そういうふうに読まれる言葉を書けたらいいなと思います。
――これから、玉置さんの声で読めるような本を出したい、というのも目標の一つになったのではないかと思いました。音楽以外のフォーマットでも世の中に発表することができて、ちゃんと違う味のするものになるんですね。
そう、音楽やってるから音楽でしか発表できないっていうのは、結構俺にとってストレスで。さっきの話と矛盾するようですが、音楽以外の方法論、歌以外の世界に入っては出て来れるようになりたいですね。
――以前、読んだ本について「誰かと感想を言い合いたい。そのために、自分がどんな本を読んでいるのかアピールする必要がある」と言っていました。
本を読むときに、情報の摂取として読むことはほとんどないんです。どちらかというと、自分がもともと持っていた感覚を喚起してくれる本が記憶に残る。最近というよりは大学生の頃に本と触れ合っていて、そういう体験が多かったですね。
――共感とはまた少し違うんですか。
そうですね。共感というより、むしろハッとする感じに近い。思いもよらぬパンチを食らったような感覚にもなるんだけれど、パンチを食らった後から考えたときに、これはもともと、既に知っていたような気がすると思えてくる。その感覚に近いです。
――玉置さんの作る世界観は、どういう形ですか?
音楽は1曲が短いんで。例えば2時間の映画って、最初がいくらつまらなくても観ておかなければ、後半のカタルシスに到達できない。でもショートフォームがこんなに隆盛を極めたら、それに慣れちゃっている人間の身体を無理やり説得することって、作品は難しいんじゃないか。だから、やけに序章的なイントロを音楽で作っていると、結構自分でも、これ聴いてられるのかな、みたいな気持ちになって。そこはすごく精査します。
過去、一番曲を作れていた時期の自分の生活っていうのは、金がなくて、金がないから趣味が本で。今は違うって人もいるけど、読書はかなり最安のエンタメだと思うんですよ。26ぐらいまで僕が買ってるものって全部、神保町とかで100円セールのジャケ買いで、本棚にあったら良さそうだなとか、渋くなりそうだなとか。そういう理由で集めただけで。背表紙買いとも言ってますけど、『人間・この劇的なるもの』も、『ムーたち』も名前で惹かれるし。
でも今、その感じに戻ることはできないんですよ。あの頃よりはお金があるし、他にも楽しいことをたくさん知っちゃってるし。けど、いまでも一番自分が幸せだと思うのって、部屋の床に座って、いきなり本を読み始めた時か、曲を作って出来上がってる時。他は幻みたいな幸福であって。お酒飲んで気持ちいいな、みたいな。次の日忘れるタイプの。本を読んでハッとしたときみたいに、運命的なものを感じざるを得ない幸福が好きですね。
――玉置さんにとって運命的なものを感じさせるものとは?
皿洗いです。俺はもう、本当に狂気的ですよ、皿洗いは。1日に4回ぐらい洗ってて。戦後の作家とか読んでても、大体奥さんが全部ご飯作ってて、そんなの読んだら俺も音楽に集中したいから料理が上手い人と結婚して、それが当たり前なのかな、みたいな発想になる。でも今は、昔みたいな「仕事が男、家事は女」みたいなものから、別に何しても、社会がある程度認めてくれるような方向に来てるでしょう。
それは俺にとっても都合がいいんですよ。「お前は音楽ばっかやってても食えないんだ」って外圧をかけられている状態の方が、むしろ良いものができてたというか。いい作品をいっぱい摂取してさえいれば出来上がるわけじゃなかったんだっていう感覚が、俺にはあるってことですね。そういう環境だと、絶対集中できないですね。逃げ出しちゃうよ。
――この4冊をまだ読んでいない方々に対して、「こういう風に読んでほしい」という思いはありますか。
明確に2つに分けていいですか。『ムーたち』と志村正彦は僕のフェチが表れていて、言葉遣いとか、世界の見方が面白いなって思った作品です。『堕落論』と『人間・この劇的なるもの』は、自分が生きていくにあたって、こう考えることが自分の人生に最も深く関わると思って読んでいた本です。音楽よりも玉置周啓っていう人間を形成したという意味で大きかった。「俺はずっとこう思っていたのかもしれない」と思って衝撃を受けた、と言う感じです。全部が理解できてるとは思えないけど、つまずくことなく読み切って、「マジでこいつが言ってることが真理だ」みたいに思った。とにかく、自分はこう生きたかったんだ、本当は、と思わせてくれた作品です。