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分類 押し付けられる苦さ ここにない世界を見る心 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評26年4月〉

絵・大村雪乃

 この世には本当に女性と男性しかいないのか。幼稚園のころ、絵本や児童文学を通じて物語の世界にはまった僕は、その延長で小学校に上がってもクラスの女子たちと、ままごとをしたり人形遊びをしたりして暮らしていた。しかしある日、クラスの男子から発せられた言葉が僕を切り裂く。「おまえは女子の味方だからな」。だが適性のない僕は、野球をしてもバットにボールが当たらず、ドッジボールをしても逃げ回るばかりだ。結局、本の世界に逃げ込み、気づけば大学で文学を教えるようになっていた。

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 松浦理英子『今度は異性愛』(新潮社)の主人公である宮内祐子はかつて自分を女の身体(からだ)を持つ男だと考えていた。だがその想(おも)いは挫折する。「幼稚園では先生も子供たちも性別によって扱いを変えるじゃない? 人が私を女の子だと思ってることはひしひしと伝わるわけ。ああ、自分だけで自分を男の子だと思っててもだめなんだ、通用しないんだ、と思い知らされて、苦々しさを嚙(か)み締めながら自分を男だと考えることを諦めたの」。そして男性として男性と関係を持ちたいという気持ちを、ボーイズラブ小説の執筆にぶつける。

 四十代で一度は書き尽くした、と思った彼女だが、六十代で再び創作意欲が湧き上がる。今度は異性愛の作品を書いてみよう。だが想を練るものの、すぐに男性同士の関係にそれていく。小学校時代、クラスメイトの男子たちがスキンシップに喜びを覚えているのを見て興奮する話。女性作家が描いた男性同士のSM作品に熱を感じる話。そうした場面に出てくる感情の繊細さが心地よい。

 印象的なのは、館林厚樹との思い出だ。農業に従事する控えめな彼と祐子は、このまま一生続くかもしれない微妙な関係を維持していた。だが事態は急展開する。スズメバチのアレルギー反応で厚樹が急死したのだ。気が回るし、相手にも合わせられる彼とだけは、祐子は対等な関係でいられた。けれども、そうした厚樹は死によって罰せられる。このことは、現代日本でいまだ、男女の対等な関係を保つのがいかに難しいかを作者が表現しているようにも思える。

 結局、独身を貫いた彼女の人生を知るにつれ、「人は好きなようにしか生きられないとさえこの頃では思いますね」という祐子の言葉に、限りない苦さと誇りを感じる。

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 分類の押し付けは人種でも同じだ。ジェスミン・ウォードの回想録『私たちが刈り取った男たち』(石川由美子訳、作品社)で描かれるのは、フレンチ・クレオールと呼ばれる人々が暮らすミシシッピ州の町デリルの思い出である。かつてフランス領だったここでは、アフリカ人やフランス人、スペイン人、アメリカ先住民が混血しながら独自の文化を育んでいた。だがアメリカ合衆国の一部となると、状況は大きく変わる。彼ら全員が黒人とみなされ、激しい差別と貧困にさらされることになったのだ。

 十九世紀半ばに奴隷制が終わっても彼らの苦境は続く。若者たちは疑いの目で見られ、学校からも警察からも厳しい扱いを受ける。ろくに職もないまま薬物が蔓延(まんえん)し、彼らは次々と命を落とす。ならばここから出ていけばいいではないか。しかし、何年も北部や西部で過ごしても、人々は必ずミシシッピに戻ってくる。ここに愛する人々がいるからだ。

 ウォードはかつて先祖が話していたフランス語を学び、名門大学に進学して、現代アメリカを代表する作家の一人に登り詰めた。それでも南部にとどまり続けるのは、文学を通して、目の前の現実とは違う世界をもたらそうとしているからだろう。

 舞城王太郎「ベルゼバビブベボ」(「群像」5月号)では、現実と幻想の境界が疑われる。あるとき、安和(あわ)ちゃんの脇腹のあたり、膵臓(すいぞう)と脾臓(ひぞう)のあいだにハエが現れる。病院のレントゲンにもはっきり映ったハエだが、すでに撮影した写真の中で勝手に動いているところを見ると、どうやら実在はしないらしい。やがてそれはチョロQのタラップ車になり、鳥になり、猿になる。ならばやっぱり実在するのか。だがそう思う夫を安和ちゃんは一喝する。「ある」と同時に「ない」ものについて、どうしてあなたは考えられないのか。それは文学も同じことだ。文学で語られる世界は「ない」。けれども、人の心を動かす点では「ある」。一見、おふざけのような短篇(たんぺん)だが、舞城の問いは深い。 (翻訳家・米文学者)=朝日新聞2026年4月24日掲載