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働いて、働いて、途方に暮れて 生き抜いて、あるときの幸運 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評26年5月〉

絵・大村雪乃

 最初は希望に満ちていた。学校を出て就職したあなたは、熱心に仕事に打ち込む。やがて気づいた問題点を上司に指摘し、こうすれば良くなるのではないかと提案する。だがどうやら、周囲に疎んじられているらしい。そして頑張れば頑張るほど、職場に居づらくなっていく。体調も悪化し、ついに退職を余儀なくされる。自分のどこが間違っていたのか。あなたは途方に暮れる。

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 竹中優子「水をなぞる」(「新潮」6月号)の主人公である貴恵は、大学を出て市役所に勤め始める。女性でも安心して定年まで勤められる、というのが理由だ。けれども、実際に働き始めると様子が違う。ただ熱心に仕事をしているだけなのに、杓子(しゃくし)定規だと非難される。業務改善の提案をしても無視される。

 お気に入りの女性職員だけが選ばれて部長と飲み会に行き、そこから排除された貴恵は職場で軽んじられるようになる。それでも彼女は頑張り続けるが、一ケ月も風呂に入れなくなる。「生きるために働いて、そのせいで病気になるって何だろう」。そしてある日、市役所に行けなくなり、そのまま仕事を辞める。

 四十歳を過ぎて就職活動を始めた貴恵は、三十社から断られたあと、怪しい健康グッズの会社に転職が決まる。健康への心配を煽(あお)って街頭で老人たちを集め、まずは七百円の「ヘルスウォーター」を売りつける。彼らの話を聞くことで人間関係を密にし、徐々に高額商品に導く。

 もちろん貴恵も、最初から怪しいということはわかっている。しかし彼女には他に行き場がない。だから、真面目に仕事に打ち込む。口上を覚え、お客さんの話に耳を傾け、最大級の共感を示す。さらに自分で経験しなければ噓(うそ)になる、と考えた彼女は「ヘルスウォーター」を定期購入し、後には七十万円の「ヘルスチェア」もローンで買ってしまう。

 やがて貴恵は徐々に眠れなくなる。せっかく見つけた居場所を失(な)くしたくない。けれども貴恵がこんなに頑張っているのに、社長に重要な出張に行かせてもらえるのは、同僚の男性である林くんだけだ。結局、市役所もこの会社も同じ原理で回っていることに、彼女は気づき始める。日本の組織の何が病んでいるのかを、竹中は明瞭に示している。

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 戌井昭人『あんたはだいじょうぶ』(幻冬舎)もまた転職の話だ。一九〇〇年に三歳で太平洋を渡った鉄熊みち代は、足技芸人一座である家族と三年間全米を巡る。やがて父は帰国し、一緒に残った母も病死する。天涯孤独となった彼女はカーニバルに加わり、その技の見事さと性的な魅力で人気を得る。

 あるとき事件が起こる。強盗の放った流れ弾に当たったみち代は昏睡(こんすい)状態に陥り、夢を見る。その中でサンマが「あんたはだいじょうぶ」と何度も語りかけてきたのだ。一命を取り留めた彼女はサンフランシスコの街角に立ち、歩行者に毎日、「あんたはだいじょうぶ」と大声で語りかけるようになる。やがて彼女の声の持つ不思議な力に感化された人々は、彼女にお金を持って来はじめる。

 一方、日本からの移民で、ベトナム戦争に従軍し地雷で左手の指を全て失くした鴨田秀雄は、PTSDで苦しんでいた。ゴールデンゲートブリッジから飛び降りて死のうとしても死ねない。そして思い出したのが、過去に聞いたみち代の言葉だ。再会したみち代に「あんたはだいじょうぶ」と言われた秀雄は、激しい衝撃を受けて彼女の付き人となる。

 日本を飛び出したみち代が、自分らしさを発揮しながら生き抜き、しかも人の役に立つ。時に無用だとされる芸こそが人の命を支えることもあるのだと、本作は教えてくれる。

 フアン・ルルフォ『黄金の軍鶏(しゃも)』(杉山晃訳、国書刊行会)の主人公ディオニシオは博打(ばくち)打ちに転職する。村人たちに声で情報を伝えるお触れ屋である極貧の彼は、あるとき死にかけた軍鶏を与えられる。必死の介抱でなんとか生き返らせ闘鶏に臨むと、彼の軍鶏は連戦連勝する。だがもちろん幸運は続かない。やがて強力な敵に彼の軍鶏は殺されてしまう。

 しかしディオニシオの運は、これでは途切れなかった。博打打ちの先輩であるベナビデスに弟子入りした彼は、持ち前の才能でめきめきと頭角を現す。さらに、手の届かない存在だった歌手のラ・カポネーラと結婚しさえする。人々や動物たちが運命に翻弄(ほんろう)されながら血を流し、それでも必死に生きる。ルルフォの作品は常にギリシャ悲劇のようだ。(翻訳家・米文学者)=朝日新聞2026年5月29日掲載