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暗闇に射す光 心にまっすぐ届く歌声 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評26年3月〉

絵・大村雪乃

 人生が暗い。未来が見えない。周囲の人々と通じ合えない。それでも歯を食いしばるようにして、一日一日を生き続ける。突然、そんな日々に光が射(さ)す。ある歌の歌詞が、ふと心に寄り添ってくる。まるで遠い昔からあなたを知っている友人のように。その言葉と一緒ならきっと生きられる、とあなたは思う。

 角田光代『明日、あたらしい歌をうたう』(水鈴社)の主人公のくすかは、ほとんど誰にも話しかけられないで育つ。母親も父親も彼女にまるで関心がない。くすかは両親と食卓を囲んだことすらない。だから時々「もしかしたら自分はだれにも見えないのかもしれない」と思う。

 こうした状況を変えたのは、ある歌声だった。高校生になった彼女は突然、パン屋でこう話しかけられる。「夢を見るのは悪いことじゃない」。その声が自分に向けられていると彼女は確信する。さらに声はこう続く。「大丈夫さ、うまくやるさ、すべては始まったばかりさ」。おそらく忌野清志郎であろう声が、くすかと世界を一瞬で繫(つな)いでしまう。

 彼女の住む県に彼のバンドがやってくると知ると、高校で初めてできた友人の庭田さんと、片道二時間半もかけてライブに出かける。そして帰りの電車で、くすかは世界の美しさに目を開かれる。東京の大学で、彼女は同じく清志郎を愛する時生と出会い、恋に落ち、卒業して数年で結婚する。だが、幸福な日々は続かなかった。

 くすかが産婦人科で妊娠を告げられた日、時生は駅でホームから落ちそうになった痴漢を助けようとして転落し、亡くなってしまう。だが、時生の意思は世代を超えて引き継がれる。中学生になった息子の新はバンドを組んで清志郎の曲をカバーし、母親から一度もはっきりとは教えてもらえなかった時生の秘密を祖母から聞く。

 かつて暗い穴蔵にいたくすかに、時生はまっすぐ手を伸ばしてくれた。そして新もまた、そうできる人間として育つだろう。歌声も、文学の言葉も、同じく暗闇で伸ばされる手なのではないか。角田光代の本作はそのことを教えてくれる。

     ◇

 セシリア・マンゲラ・ブレイナード『虹の女神が涙したとき』(松田卓也訳、幻戯書房)の舞台は、第二次世界大戦中のセブ島がモデルだ。マニラが陥落した後、日本軍が迫ってくると聞いた主人公の少女イヴォンとその家族は、近くの島のジャングルに退避し、ゲリラたちと日々をともにする。頼りにしていたアメリカ軍は、マッカーサー司令官とフィリピンから逃げ出してしまった。あとはフィリピン人たちの手で日本軍の進撃を阻止するしかない。

 本当にアメリカ軍は戻ってくるのか。明日には家族が皆殺しにされるのではないか。そうした暗い日々の中、イヴォンの心を支えたのは、コックであるライダーンから聞いたフィリピンの神話だ。かつて彼女の師匠である「イヌークは空の世界の乙女や、地下世界で死んだ赤ん坊たちを見守る優しい女神メイブヤンや、他の物語についての美しい歌を歌った」。そしてまたライダーンも、強大な敵と戦い、生き延びた人々の姿をイヴォンに語り聞かせる。

 かつて三百年以上、スペインの過酷な支配にあえぎ、その後四十年間アメリカの植民地とされたフィリピン人は今、日本の侵攻を受けている。平等や民主主義など、どんなに素晴らしいことを口にしていようと、結局のところ外国人は私たちを助けてくれない。自分たちの運命を切り開くのはフィリピン人自身だ。そうした意識が神話を語るライダーンの歌声と共鳴する。

     ◇

 三国美千子「姥皮(うばかわ)」(「新潮」4月号)で歌うのは、離れで暮らすあけ美さんの鳩(はと)時計から飛び出す白い鳩だ。奥手な元子はようやく田口さんと結婚するが、彼女が子どもを欲しがっても、田口さんは協力してくれない。その話をすると、あけ美さんは姥皮を元子に手渡す。その直後あけ美さんは入浴中に亡くなる。

 これをかぶって老婆に変身した元子は、他人のふりをして田口さんを誘惑し、ついに子どもを得ることに成功する。娘を気遣い、嫌なら無理に産まなくていい、という母の言葉に元子は思う。「厳しい母がお腹(なか)の赤ちゃんの命よりも、私の身を心配してくれていたのだと気がついて、すうっと透明な光で体が満たされたようなすがすがしいきもちになった」。日本の民話と現代の女性の生き方が直接繫がる。(翻訳家・米文学者)=朝日新聞2026年3月27日掲載