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「書物の航海へ」書評 偉大な先人たちも悩み迷走した

評者: 井手英策 / 朝⽇新聞掲載:2026年05月09日
書物の航海へ いまを生きるための古典 著者:石井 洋二郎 出版社:岩波書店 ジャンル:評論・文学研究

ISBN: 9784000617437
発売⽇: 2026/02/27
サイズ: 3.3×18.8cm/400p

「書物の航海へ」 [著]石井洋二郎

 新入生と話すとき、私は口癖のように「古典を読みなさい」という。
 古典が扱うのは、人類が国や時代を超えて挑んできた問いだ。明快な答えはまれ。内容は解釈に委ねられるから何度も読み返す。思考が深まると線を引く場所も変わる。人類が格闘してきた問いと対峙(たいじ)しつつ己の成長を確認する、こんなに愉快なことはそうそうない。
 だが卒業した学生が古典を繰り返し読むだろうか。教養を押しつける後ろめたさもある。そんな私にとって、「いまを生きるための古典」という本書のサブタイトルはなんとも魅力的に映った。
 本書は、数々の古典から著者の気になった文章を引用して、議論が進められる。正直、ある段落をして全体を語らしめる手法はあまり好みではない。恣意(しい)的な切り取りと紙一重だからだ。
 だが違和感は見事に裏切られる。本書は、驚く・知る・関わる・戦う・愛する・生きるという人間を形作る「相」ごとに章が構成されている。これがうまい。人間の日常の営みに即して古典が引かれる。そこでは、時を隔てた思想家たちの意外な連続性という縦糸と、通説の陰に隠れた驚くべき着想という横糸が鮮やかに織りなされ、先人たちの知的格闘の軌跡が生々しく描かれる。
 読後感も温かい。歴史を超えて苦悩し続ける「人間」への愛(いと)おしさが随所に滲(にじ)みでているからだ。思想家たちの悩みは底なしに深いが、それゆえに迷走もする。著者もまた、思索の末にたどり着いた自らの論の素朴さ、議論の漂流を率直に告白する。先人たちの葛藤が〈いま〉を生きる私に接続するこの感覚。サブタイトルに偽りなしだ。
 古典が難解なのは、人間が苦悩する存在であることの証(あかし)だと知る。事実に驚き、疑問を抱く。考え、悩み、迷走を重ねて新たな問いに漂着する。これこそ人間が人間たる所以(ゆえん)である。学生よ、古典に挑め。人間らしくあれ。語るべき言葉を与えてくれた本書に感謝だ。
    ◇
いしい・ようじろう 1951年生まれ。東京大名誉教授。専門はフランス文学・思想。著書に『ピエール・ブルデュー』など。