深町秋生「血は争えない」 避けられない運命描く本格ピカレスク小説(第38回)
深町秋生は裏切りを描く作家である。
正確を期するなら、裏切られる者を描く、とするほうがいい。
裏切られる対象はさまざまだ。信頼していた相手であったり、大切に護ってきた信条であったり。世界と言い換えてもいい。深町の描く主人公は、世界に裏切られるのである。
新作長篇『血は争えない』(双葉社)は新宿・歌舞伎町を舞台として書かれた犯罪小説だ。深町はこれまで、さまざまな犯罪小説や暴力小説を書いてきた。映画化もされた『ヘルドッグズ 地獄の犬たち』(角川文庫)連作は、潜入捜査官として暴力団員になり、幹部まで出世した主人公と敵との闘いが描かれた物語で、矢継ぎ早に繰り出される活劇描写と、主人公たちの抱えた昏い情念が印象的であった。そうした過去作との違いは、明確に歌舞伎町の物語として書かれている点だ。昭和から令和に至る年代記として成立している。
序章は「平成二十二年 春」と題されている。2010年、東京地裁において主人公の不破隆次が刑事裁判の判決を申し渡される場面から物語は始まる。不破は広域暴力団天仁会直系、2代目岡谷組組長である。いわゆる武闘派だが資金力も群を抜いており、現在は〈歌舞伎町の狂王〉と呼ばれ恐れられている。1996年には組長でありながら自ら敵のアジトに乗り込んで敵対組織のボスを殺害、その罪で服役した後、2002年に最後の事件を起こした。4人を殺害、取り囲んだ警察隊に対しても銃器や爆発物で対応し、銃器対策部隊に狙撃されるまでサブマシンガンのトリガーを引き続けたのだという。
裁判長は主文後回しで判決文を読み上げる。そうした場合は多く死刑が宣告されるので法廷は緊張に包まれるが、不破は意外な行動に出る。「死刑だろ。能書きはたくさんだ。どうせなにもかも茶番だしな」と法廷を愚弄し、退廷を命じられると鍛えた身体能力で暴れまわり、刑務官を叩きのめしたのである。怯えて机の下に隠れる裁判長の席に向かい、不破は叫ぶ。
「どいつもこいつも偽物だ」
「おれだけが本物だ。いいか、よく聞いておけ。おれだけが本物なんだ! 本物の王だ!」
この序章を読んで、不破隆次という主人公に共感する者は皆無だろう。理解不能な男、暴力に淫した社会不適応者という印象しか受けないはずだ。だが続く「昭和四十五年 冬」の章では、まったく違った不破隆次が描かれる。
1970年。このとき不破は15歳である。山形県の母ひとり子ひとりの家で育った彼は、単身東京に出てきた。母・有紀子が病死したからだ。生前の母から不破は、何かあったら東京にいる父親を訪ねるように教えられていた。父の名は王大偉、興業会社〈ブライトネス〉を経営する台湾出身の実業家として歌舞伎町の表と裏を支配する実力者である。不破はなんとか王大偉の事務所に到達するが、騙り、あるいは強請り扱いされて取り合ってもらえない。放り出されそうになったところを救ってくれたのが近藤傑志であった。
近藤は、王大偉が妻以外の女性に産ませたこどもである。つまり、不破と同じ立場だ。母が空襲で死んだ後は大偉に引き取られ、正妻の子である王英輝・智文兄弟と共に育てられる。しかしふたりのような高等教育は受けさせてもらえなかった。自分は所詮妾腹の子なのだと思い知らされた近藤は、渋谷を根城にとする愚連隊に入り、後には歌舞伎町の岡谷組の盃を受けて身内になった。ヤクザとして父・王大偉の王国を陰から支える決意を固めたのだ。
この近藤に不破は救われる。ヤクザであるが近藤は聡明かつ家族を大事にする温和な人柄で、彼が妻・歩美、一粒種の雄也と住む大久保のマンションは、彼にとって第二の我が家のような場所になる。近藤によって不破は〈ブライトネス〉が経営するボウリング場で働き始める。そして義兄の背中を追うように岡谷組の盃を受け、ヤクザの道を歩むことになる。
後に狂王と呼ばれる男が、上京時には純朴な少年だったという点にまず注目したい。ピカレスクは16世紀スペインで誕生して流行し、イギリスに伝播してその一類型に定着した小説形式だ。貧困などの事情から安定した暮らしが送れず、数奇な人生を送った者を主人公とするもので、日本では悪漢小説の訳語を当てられたことから、職業的犯罪者の小説と狭く誤解されることも多い。だが本質は、自分の意志によらず社会から疎外された者が時に法から逸脱もしながら、生存のために奮闘するという点にある。原型のピカレスクは回想の物語で、後に振り返って若い頃の逸脱を懺悔するという形式になっていた。現在からの回想を枠として用いるわけである。この形式に『血は争えない』はぴったりと当てはまる。本作は、深町秋生が初めて取り組んだ本格ピカレスク小説なのだ。
不破が奉じるものは、王大偉の息子だという血筋である。そこに恩人・近藤傑志への思慕が重なり、王一族の守護者となるという決意は、単なる信条から自らの行動を縛るほどの鉄則に成長していく。逆に言えば、王一族の末席に連なるものであるという思いが不破を縛る枷なのである。明確な偏向を与えたことで、不破隆次というキャラクターの魅力はいや増した。
暴力衝動や、復讐心などの行動原理は、わかりやすいが危うい一面もある。冷静に考えれば、暴力は振るわないほうがいいし、どんなに恨みを抱いていても法を犯してまで復讐はしないほうがいい。行為に対する見返りがなさすぎるからだ。暴力を描いた小説に対して拒絶する読者が多いのは、描写が生理に合わないということもあるが、この経済効率の悪さを受け入れられないからではないだろうか。だが本作では、不破に自分を縛る血の原理によって動かざるをえないという人格の縛りを与えることで、納得のいく主人公像を設定することができた。この縛りはピカレスク小説における、本人の意志ではない理由で数奇な人生を送ることになる、という原則にも合致している。
犯罪者を主人公とする小説の常として、不破はどんどん出世をしていく。昇り詰めたところで思わぬ事態に見舞われ、ようやく安寧を得たところで悲劇が出来する、といったプロットの起伏を駆使する技巧にこの作者は長けているので、展開を改めて説明する必要はないだろう。ただ物語のうねりに身を任せていればいい。
〈ブライトネス〉社員としてカタギの暮らしを送ることもできたのに、不破は自分が一族のためにより力になれる道を選んでしまう。これは悪魔との契約で、魂を差し出して成功する代わりに最後には破滅するという悲劇の選択だ。不破が最後には死刑判決を受けるということは「序」から読者全員が知っているわけで、その不可避の結末に向けて物語がどう動くかという関心がページをめくらせる原動力になる。さらに不破は、自身の選択を正当化するために、物語の中途である工作を行うのである。主人公が他人に言えない秘密を抱えた物語は間違いなくおもしろい。秘密があるがゆえに主人公は心の平穏を得られず、身を護るための行動を永久に続けることになるからだ。
年代記形式なので、新宿・歌舞伎町の風俗文化が物語背景に巧みに織り込まれていることも美点として挙げたい。転換点は1992年の暴対法改正で、荒っぽかった街が浄化され始める。不破たちヤクザが社会から次第に疎外されていくさまを描くことも作者の狙いの一つだっただろう。この世に居場所をなくした者たちの哀しみをこの作者は好んで書く。
街に背かれるだけではなく、もっと大きなものに裏切られた男が、最後にどういう選択をするのか、ということが最大の関心事となるのである。
作者のファンとしては、主人公の好む女性が年上で気の強いタイプである点など、ああ、やっぱり深町秋生だな、と思わせられる箇所が多くて楽しい。出世作〈組織犯罪対策課 八神瑛子〉シリーズ(幻冬舎文庫)をはじめ、深町は強い女性が大好きだし、書くのが上手いのである。そういう期待は、裏切られない。
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杉江松恋さんが選者を務める書評コンテストを「好書好日」で開きます。 課題図書は直木賞作家・嶋津輝さんの『カフェーの帰り道』(東京創元社)です。字数は800字(20字取り40行)以内です。杉江さんが選んだ書評は好書好日で公開し、優秀作には好書好日の特製トートバッグをプレゼントします。応募はメールで好書好日編集部(book-support@asahi.com)へ。6月20日締めきりです。