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目からうろこのホラー映画講義 「男と女とチェーンソー」訳者・小島朋美さんインタビュー

小島朋美さん=有村蓮撮影

〈ファイナル・ガール〉を発見したホラー論の名著

――2月に邦訳された『男と女とチェーンソー』はアメリカ本国ではすでに定評のあるホラー映画論だそうですね。

 もともとは1992年にアメリカで出版された本で、刊行当時はかなり話題になり、ブラム・ストーカー賞の候補にもなりました。その後もホラー論、ジェンダー論の基礎文献として読まれてきましたが、日本ではなぜか訳されておらず、クローヴァーがこの本で生みだした〈ファイナル・ガール〉という言葉だけが広まっていたという経緯があります。ホラー映画で最後まで生き残るヒロインのことを〈ファイナル・ガール〉と呼ぶのは知っていたんですが、自然発生的な用語だろうと思っていた。

 それに明確な名づけ親がいると知ったのは、「これまでにないファイナル・ガール」が登場するというふれこみの映画『ハッピー・デス・デイ』のファンZINE制作をしていた時です。ほどなくクローヴァーの原著に行き着いて、序章と第1章を読んでみたら面白そうだったので、旧知の晶文社の吉川浩満さんに「邦訳を出しませんか」と提案した。それが4年前のことです。

翻訳された『男と女とチェーンソー』=有村蓮

――翻訳には苦労されたとか。

 実際訳してみると、思考をひとつひとつ積み上げていくような、息の長いクローヴァーの文章はかなりの難物で、正しく日本語に移し替える自信が持てませんでした。そこで畏れ多くも、翻訳家の柴田元幸さんに訳文を見ていただきたいとお願いしました。他にも控えていらっしゃるお仕事がたくさんある中、本当にご無理をお聞き入れくださって。柴田さんのおかげで、自信を持って世に送り出せるものになったと思います。それでもいろいろあって完成までに時間がかかったのですが、その間クローヴァーが言及している映画を、日本未紹介のものも含めてすべて観ることができたので、結果的にはよかったかなと思っています。

――著者のキャロル・J・クローヴァーはもともと中世北欧文学の研究家だそうですね。

 映画は好きでよく観ていたようですが、低予算ホラー映画やエクスプロイテーション映画(exploitation film:扇情的な題材を扱った娯楽映画)とは距離を置いていたそうです。ところが友人に勧められて『悪魔のいけにえ』を観に行き、スクリーンに映っているものと観客のギャップに興味を惹かれたんですね。『悪魔のいけにえ』では若者たちが怪しい一家に次々に襲われて、女性のサリー1人だけがなんとか生き延びる。でもそれを楽しんでいる観客の多くは、若い男性なんです。クローヴァーはその翌日からレンタルビデオ店に通って、ナイフや殺人鬼の描かれた映画を手当たり次第に借りたといいます。

 ちなみにクローヴァーがアイスランドの『サガ』などの中世北欧文学を研究していたのは、本書にもしっかり役だっています。スラッシャー映画(slasher film:殺人鬼が主に女性を標的として、次々に殺していく映画)って、だいたい似たような話が多いじゃないですか(笑)。クローヴァーが専門の口承文芸も、やはり同じような話のくり返しが多いんです。彼女がスラッシャー映画にフォークロアの要素を見出したのは、専門分野と無関係ではないと思います。

小島朋美さん=有村蓮撮影

ジェンダーで読み解いてみると

――第1章から第4章まで、クローヴァーは数多くの作品を取り上げ、ホラー映画とその観客を分析しています。第1章は有名な〈ファイナル・ガール〉について論じた章です。

 スラッシャー映画で最後まで生き残る女の子には、一定の特徴があるとクローヴァーは述べています。性的なものには奥手で、本が好きだったり、機械いじりが得意だったりする。今なら陰キャと呼ばれるタイプの子たちです。これはスラッシャー映画のメイン客層である若い男性が共感しやすいタイプでもある。名前もウィルとかジェスとか男っぽい名前を与えられていることが多いんですね。

――クローヴァーはそうした〈ファイナル・ガール〉に、男性の観客たちがジェンダーの境界を越えて共感していると指摘します。

 スラッシャー映画が流行した1970年代から80年代にはまだ、男性が怖がったり悲鳴をあげたりするのは“女々しい”とされていました。そこで男性の観客たちに代わって痛めつけられ、恐怖しながらも生き延びるという〈ファイナル・ガール〉が求められた。暴力衝動だけでなく、マゾヒスティックな感覚を満たすことができるのが、スラッシャー映画なんだというのがクローヴァーの説明です。それまでの映画批評においては、映画はローラ・マルヴィの提唱した「メイル・ゲイズ(male gaze:男性の視線)」によって作られている、男性が見たいもの、共感できるものが映し出されているんだというフェミニズム批評が力を持っていましたが、クローヴァーは作品と観客のギャップに注目することで、より複雑なジェンダーのありようを示したんです。

小島朋美さん=有村蓮撮影

――第2章で扱われているのは、悪魔や幽霊が人間に取り憑く憑依映画。ここにもジェンダーの問題が色濃く反映されている、とクローヴァーは指摘します。

 代表的な例をあげると『エクソシスト』や『ポルターガイスト』ですね。ここで大事なのは、悪魔や霊に取り憑かれる器となるのは、ほぼ例外なく女性であるということ。そしてその裏側では、男性の葛藤が描かれているんですね。『エクソシスト』にはカラス神父という悩める神父が出てきますが、少女リーガンを救うため、信仰の危機を乗り越えて、悪魔に立ち向かっていく。このジャンルは男性が弱さを認め、変化する物語だとクローヴァーは述べています。

――第3章では田舎ホラー映画に隠された、経済格差の問題が浮き彫りにされます。

 ここでクローヴァーがまず取り上げているのはレイプ・リベンジものと呼ばれる作品群。男性にレイプされた女性が復讐を果たすという物語なのですが、被害に遭うのは大抵都会からやってきた裕福な女性です。そして加害者は貧しい田舎の男性。田舎を舞台にしたホラーには都会人の抱く「アーバノイア」(urbanoia:田舎へのパラノイア)が反映されており、その背後には経済格差の問題があると指摘している。これも鋭い指摘ですよね。田舎を舞台にしたホラーは近年、フォークホラーと呼ばれて人気を集めていますが、アメリカ映画の場合、背景には搾取への罪悪感とそれを帳消ししにたいという思いがあるのだと思います。

――第4章は総論で、わたしたちはなぜホラー映画を観るのかという問いへの答えにもなっています。

 この章は見ることがテーマになっています。ホラー映画のパッケージは目がアップになっていることが多く、殺人鬼の一人称視点の映像もよく用いられる。見る/見られるということが、ホラーでは重要な要素であり、そこには加害性とマゾヒズム的な快感が伴うんだという説を、『血を吸うカメラ』を例にあげて展開しています。じゃあなんでそんな残酷な映画をわたしたちは好むのか、という部分については、フロイトのいう反復強迫、つまり過去のトラウマを克服するためにそれをくり返しているんだという説明をしている。フロイトを引いてくるあたりはこの本の時代的な限界かなという気もしますが、嬉しい誤算だったのは読者の感想で「もっと最近の映画も取り上げてほしかった」と書かれていたことです。つまり内容的にはそこまで古びておらず、現代にも通用するものと受け止められているようです。

小島朋美さん=有村蓮撮影

ホラー映画は社会を先取りする

――それにしてもクローヴァーはマイナーな映画をよく観ていますよね。この本は映画ガイドとしても役に立ちます。

 口承文芸では下流にあるものが上流に影響を与える、昇華されていくという考え方があります。スラッシャー映画やエクスプロイテーション映画を「どうせくだらない映画でしょ」と見下さなかったのは、そういう理由もあると思います。この本ではその手の映画が、公民権運動や女性解放運動など、社会のさまざまな動きを先取りしていると述べていますよね。だからといって対象に肩入れしすぎることもなく、適度な距離を保って分析しているのも、本書の美点だと思います。

――訳者あとがきによると、小島さんは子供の頃からホラー好きで、スラッシャー映画の〈ファイナル・ガール〉に共感を覚えていたとか。

 10代の頃は本当に地味な生活を送っていて、クラスのさえないグループに属して、図書館で本ばかり読んでいました。そんな境遇に悔しさも抱いていて、本をたくさん読んでいるということを心の支えにしていたんです。そんな時にスラッシャー映画に出会って、夢中になりました。『ハロウィン』の主人公ローリーは本を抱えて映画に登場します。こんな子でもヒロインになれるんだ、と嬉しかったのを覚えています。

――『男と女とチェーンソー』が書かれた頃と現在では、ホラー映画の世界は様変わりしています。〈ファイナル・ガール〉の描かれ方も変化しているのでは。

 本書によって〈ファイナル・ガール〉という概念が広く知られるようになり、その結果〈ファイナル・ガール〉の役割も変わってきました。かつては生き延びるだけだった女性たちは、どんどん強くたくましくなり、敵を打ち倒すフェミニストヒーローのような存在になっていった。クローヴァーは〈ファイナル・ガール〉が一人歩きしてしまったと表現しています。

 現代の映画ではその役割はもうちょっと複雑で、映画の中で起こっている欺瞞を暴く役目を担っている。たとえばモデルの世界を舞台にした『ネオン・デーモン』だと、主人公のジェシーがひたすらカメラで撮られ続けるんですが、観ていると居心地が悪くなってきて、若く美しい体が求められるファッション業界のいびつさに気づかされるという構造になっています。〈ファイナル・ガール〉という概念を取り入れることで、映画の中の女性たちが何を告発しているのか、気づきやすくなるのではないでしょうか。

――ホラー小説を読むうえでも、非常に有益な本だと思いました。鑑賞のためのものさしを与えてくれる一冊ですね。

 だと思います。この本を読んでおくと、映画を観ていても、いろんな部分にアンテナが働くようになる。「批評・ジェンダー・フェミニズム」と三拍子揃っているので重たい本だと思われそうですが(笑)、決してそんなことはないので、最初の批評本として若い方たちにも手に取ってもらいたいです。