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喪失感の中 見つめ直した昭和史 高村薫「レディ・ジョーカー」

写真・郭允

 30代後半で作家デビューして以来、実体験の延長で小説を書いていました。『黄金を抱いて翔べ』は会社員だった当時、疲れ果てて大阪市内を歩きながら、銀行強盗でもしたら気が晴れるかな、とふと思ったのがきっかけ。『照柿』に登場する工場も、私が育った大阪の町工場の懐かしい風景です。
 『レディ・ジョーカー』も、自らの生活の延長線上で書くはずでした。でも、連載開始直前に阪神大震災が起き、社会をより大きな目でとらえるようになりました。
 バブル経済崩壊後という時代でした。「政治は三流だが経済は一流」と聞いて育った世代にとって100兆円の不良債権はショックでした。誰がどこで間違えたのか。震災とあわせ、自らのアイデンティティーが崩れる感覚に襲われました。大正生まれの私の母が「これから悪い時代になる気がする」と言ったのも、きっかけの一つでした。
 なぜ、こんな日本になってしまったのか。今と地続きのものとして昭和史を見つめ直そうと考えました。社長が誘拐されたグリコ・森永事件を題材に、大企業が恐喝される話にしようと。一般的な株式会社にしたかったので、ビール会社にし、企業の背後の裏社会、地下茎を描こうと考えました。
 差別の問題も扱いました。幼少の頃、動物園に行くと、入り口付近で路上生活者が寝ていました。私と親は動物園で遊ぶが、後ろを振り返ると帰る家のない貧しい人がいる。どうして?と気になって仕方がない。被差別部落の問題もそう。なぜ大人たちは差別をするのか、と。

裏社会・差別 「なぜ」を突き詰める

 疑問に対して答えを出そうと考えを突き詰めていくのは、わたくしという人間の本質なんです。自分が生きることと、この社会が抱える問題とは切っても切り離せない。よく言えば正義感ですが、そんな偉そうなこと以前に、私の世界の捉え方がそうなっている、そういう目なんです。
 新聞記者が登場しますが、そのための取材で、毎日新聞や「七社会」といわれる警視庁クラブを訪ねました。七社会では、狭苦しいブースに記者がものすごく憔悴(しょうすい)した表情で入ってきました。ちょうど東京・八王子のスーパーで女性3人が殺される事件が起きたとき。続報の取材でネタがとれず苦しんでいたのかもしれませんね。
 競馬場の場面を描くために、東京競馬場も訪ねました。競馬新聞を読んで、生まれて初めて馬券を買ったら当たったので、スタッフみんなでお金を分けました。
 それぞれのディテールから全体をつくるのではなく、その逆。東京競馬場、七社会。その場所全体の雰囲気、空気感をつかんでから細部を描きます。この空気感は関係者に話を聞いても分からない。だから必ず現場に立ちます。
 筋書きを知らずに、ぱっと開いた一ページを読んだときに空気感があるか。小説の成否はそれで決まります。私の作品に詩情や空気感があるとすれば、どんな情景も登場人物の目で書いているからでしょうか。彼が見ている風景を描くことで、彼という人間の手触りが伝わるんです。
 警察官には多数会っていますが、刑事という生き物がどうしてもよく分からない。その疑問が合田刑事を生みました。半分は常識人の世界に属しているが、完全な常識人にはなれない人。だから警察組織の中で生きにくさを抱えている。そういう人は普通、警察官にならないでしょうが。
 日本は個人であり続けるのは難しい社会です。だが彼は善良でありたいという意思を持ち、組織の中にいながらも、一人の人間、個人でありたいと考え続けている。そのためには自分のあいまいさを引き受ける胆力、精神力が必要。だから彼はとにかく考え続ける。その彼の思考によって物語は進んでいく。苦闘をしている彼は、ある意味で私自身でもあります。
 (聞き手・赤田康和)=朝日新聞2017年10月25日掲載