因果は巡る、とつくづく思います。『「在日」のはざまで』の中に随筆「クレメンタインの歌」がありますが、歌の歌詞の通りに、私は親を置き去りにしてしまったんです。
日本の敗戦の時、私は数え年17歳。皇国少年で、「天皇の赤子」になれという日本の統治を良いものだと信じていました。
一方、おやじは日本の統治に強いあらがいを感じ、朝鮮服を着て悠然と町を出歩いた。町では青年たちが朝鮮服の人に墨を噴霧器で吹き付けていて、私は父の無事を祈るおまじないをしました。大好きな父でしたが、同時に「恥ずかしくてしようがない」存在でした。
父は父で、「日本の植民地統治に順応する子どもじゃなければ安泰を得られない」と考えたのでしょう。「朝鮮人の意識を持て」とは言いませんでした。父子で過ごしても、父は黙っていることが多かった。
日本の敗戦から10日ほど後、父が釣りをしていた突堤に1人で行ったときに、ふと口をついて出たのが「クレメンタインの歌」でした。小さいときから、釣り糸を垂れる父のひざで、父と歌った朝鮮語の歌。涙をしゃくり上げながら、1人で繰り返し歌いました。
後になって母をなじったんです。父はなぜ、国や民族のことを私にもっと教えてくれなかったのか、と。母は「大事な一人息子だから、父は口をつぐんだのだ」と答えました。
この歌は元々はアメリカの民謡ですが、娘に「老いた父ひとりにして永遠に行ってしまったのか」「おまえはとうとう帰ってこない」と呼びかける内容。因果は巡るというのは、故郷に父、母を置いたまま、私は日本に渡り、死に目にも会えなかったからです。
絶対的少数者の側に立ち続けたい
1998年に金大中氏が韓国の大統領になった後、私の訪韓が認められ、臨時パスポートで済州島に降り立ちました。親の墓を放置していたわけですから、親族に罵倒されると思っていましたが、空港に迎えに来ためいは私の首にしがみつき、「よく生きて帰ってきた」とおいおい泣きました。墓にはヤエムグラが茂っていました。思えば月より遠い場所でした。
日本に渡ったことで日本語を使って生きざるをえなくなった私は、個人としての私を日本の支配から解放するために自らの日本語に報復する必要がありました。少年期にむさぼるように読んだ、白樺派などの流麗で湿潤、情感過多な日本語から、自らを切り離すよう努めました。
『「在日」のはざまで』の中で、私は「在日を生きる」ことに特別な意義を込めた。「『南と北』とを同視野に収めて生きることに展望を持つ」と。当時は望郷の念が強い時代だったから私は非難されました。
しかし、今も思いは変わっていません。日本では朝鮮籍でも韓国籍でも冠婚葬祭や酒席を共にする。本国だったらありえない。朝鮮半島の統一はずっと先かもしれないが、在日の人たちの間では実質的な統一がなされていく。それは朝鮮半島の未来を実践する一つの実験なんだ、と。そう私は信じています。
詩とは、ウソのない本当のもの、美しいもの。真、善、美を極めていく。だから詩人は正義にもとることを容認できない。良くないと思う方向に世の中が、雪崩を打って流れていくことを体で止められないとしても、少なくとも同調はしない。
「詩人はカナリアだ」という人もいます。地底に降りていくときに有毒ガスなどの危険を知らせてくれるカナリア。詩人には予知感応の力がある。
詩を書く者は生き方も必然的に問われます。絶対的少数者の側に立つ。それが詩を書く者の意思だと思っています。参院選の結果を見て、生きるのも嫌だという気分になりましたが、変化を避け、なれ合いを続けようとする社会に分け入っていくのもやはり詩だと信じています。
(聞き手・赤田康和)=朝日新聞2016年8月31日掲載