僕は1960年代の末に文芸批評家になりましたが、文芸以外の仕事を始めたのは73年ごろです。雑誌で連載した「柳田国男試論」と「マルクスその可能性の中心」は後年、『日本近代文学の起源』と『世界史の構造』につながり、この二つの流れから『遊動論 柳田国男と山人(やまびと)』が生まれました。
柳田国男は国木田独歩や森鷗外ら近代文学者とも交流があり、もともと僕にとって大きな意味をもっていましたが、2011年、東日本大震災や福島の原発事故を機に彼の『先祖の話』を読み返しました。多くの方が亡くなり、先祖の土地を離れざるをえない人たちが大勢いましたからね。
その翌年、北京の中央民族大学から「遊動民」について講演を頼まれました。この大学は先生も生徒も雲南省などの山地や遊牧地の出身者が多く、柳田が『山の人生』や『遠野物語』で語った幻の未開の民、「山人」を思い出しました。
柳田は山の民を調べましたが、「山人」は「山地民」ではなかった。山人は定住以前の狩猟採集遊動民ですが、山地民は定住後の狩猟焼畑(やきはた)農民です。僕はこれまで、『世界史の構造』などで現代の国家と資本を超える理論を研究してきました。一番最初の未開社会の構造を「原遊動性」と呼んでいますが、柳田の「山人」はヒントになりました。柳田の「山人」とは「原遊動民」なんだと。
忘れられた原遊動民の平等な社会
ノマドとも呼ばれる遊動民には遊牧民や山地民が含まれますが、彼らは原遊動民とは違います。彼らはしばしば定住社会に侵入し、国家を作りました。80年代のバブル時代にも「ノマドロジー」という思想が流行しましたが、結局、国家や資本を補完し、グローバリズムを拡大しました。これでは国家や資本を超えられない。
国家という枠組みができると、必ず戦争などの葛藤を生みます。現代社会は資本と国家が密接に絡み、経済格差や差別を生み、権力や富の不平等が当たり前になる。それを克服するには、定住以前の社会の形、国家ができる以前の状態を考える必要があります。
柳田は山人の存在を証明するため、元の形態を調べようと妖怪などとして伝承されてきた山地民を訪ねました。しかし、ついに見つからなかった。山人説は否定されたけど、柳田はなおも山人を定住以前の固有信仰(先祖信仰の祖型)に結びつけ、その存在を追究したんです。
いまの人は慣れているから逆に思っているかもしれませんが、定住社会はストレスが多く、いやなものなんですよ。原遊動民の世界は、自由かつ平等な社会です。しかし、それは定住後に、抑圧され忘却されています。
フロイトの基本テーゼは、「抑圧されたものは必ず回帰する」です。つまり、原遊動性は忘却されていますが、強迫的に回帰してきます。普遍宗教がそういうものです。たとえば、原始キリスト教も原始仏教も遊動生活をしています。ただ、山人=原遊動民を実証的に見いだすことはできないので、学者は考えない。見える形で証明できませんから。
僕はかつて近代文学は終わったと言いましたが、理論的な仕事を続けてきた僕の根本には文学があるんですね。それは柳田であり、坂口安吾ですが、この人たちには何か学者にはない夢を見いだせるんですよ。(聞き手・依田彰)=朝日新聞2015年11月24日掲載