犬と暮らすのは楽しい。だったらそれだけでよいようなものだけれども、そうなってくるとこんだ犬が出てくる本を読みたくなってくる、それで読んだのは例えば、藤野千夜の『親子三代、犬一匹』(朝日新聞出版・品切れ)で、犬と暮らす一家の物語である。家族の、ともすれば崩れて離ればなれになってしまいがちな心を支えているのは、マルチーズのトビ丸である。訳のわからない愛(いと)おしさが身の内にあふれる。犬は待っている。行ったことを恨みに思わないで帰ったことを喜ぶ。犬の心で生きたいものである。
犬の心と言えば『犬心(いぬごころ)』という本がある。書いたのは詩人の伊藤比呂美である。犬には何世代にわたって積み重なってきた犬の心がある。それはどんなに訓練しても克服しきれない心で、人と一緒に居ることが好きで自らそれを選び楽しんでいる犬はその心と犬心の間で揺れる。
人はそれを見て切ない気持ちになる。なぜなら人間のなかにも理屈で割り切れない心の働きがあるからで、それはときに非常識であったり不道徳であったりして、人の世で人はその心に苦しむ。ただし人間は言葉を話す。なのでその苦しみを言葉に置き換えて少し楽になることができる。だから黙って、なにも話さないで生きる犬の姿を見て、自分を重ね合わせて切ない気持ちになるのである。
早回しで老いて
そして犬も人間も老い、これまでできていたことが段々できなくなっていって、それがきわまったときに死ぬのだけれども、問題は犬の方が私たちよりも遥(はる)かに早く、まるで早回しのように老いて死ぬということで、犬と暮らすとき私たちはこのこと、すなわち、いままでここにいてなにか感じたり考えたりして、自分を喜ばせていたり悲しませていたりした者の、その意識がこの世から消えてなくなること、について考えざるを得ない。そして叫びたくなる。「だったらなんなのか。生きているってなんだったのか」と。
ここで作者もそのことを言葉で書いている。言葉として表している。それは言葉の奥にある意味や響き、その言葉に人が託してきた生々世々(しょうじょうせぜ)の心にまで分け入って生きて戻ってきた人の言葉で、その一見、平易な言葉の向こう側に膨大な心があるのが見える。言葉において犬の心と人の心が交わる。
犬は人間に運命を左右される。人は犬をどうとでもできる。それが物語ならなおさらである。だから物語では、犬が人の犠牲になって死ぬことが多いし、それが尊いこととされる。或(ある)いは感動的だと。しかし考えてみればこれはひどい話で、自己都合で勝手に殺しておいて、勝手に可哀想だとか言って泣いている。
そんななか太宰治が書いた、「畜犬談」はその逆で、犬によって人が変わる話である。犬が心底恐ろしいという語り手の大袈裟(おおげさ)な言葉遣いとそのねじ曲がった心理に爆笑しながら読み進めるうち急激に抜き差しならないことになって、ああああっ、心臓が痛くなるのは作者の技巧だが、その結末には人間のぎりぎりの決意、最後の最後に神に問われる決意のような真正なものが確実にあるように思われる。
星の光のような
犬は時間を持たないというが、そんなことはないように思う。多分、犬は時間を持っている。でもそれは人間が感じている時間とはよほど違う犬独自の時間に違いなく、でも実際にそれがどんな時間感覚なのかは想像もつかないが、山下澄人の『ルンタ』を読むと、もしかしたら犬が感じている時間はこの小説のなかの時間なのではないかな、と思う。星の光のような。現在と過去が同時にあるような。ならばいない犬のことを思って気が楽だ。でも涙が流れる。なぜだ?=朝日新聞2018年1月14日掲載