ちなみに僕はお米の味がよく判(わか)らない。大体どのお米を食べても美味(おい)しく感じる。炊き方の好みはあるから、硬すぎるとかそういうことは辛うじて判るが、味に関してはさっぱりである。
それでもあのお米は美味しかったという記憶がある。あの時は確かに米のうま味を感じたという経験だ。
数年前の夏の終わり、式根島にキャンプに行った。小さな島で東京から船で八時間ほどかかる。お米と調味料だけ持って行って、オカズは向こうで魚を釣ろうということになった。まあ無人島じゃないし、魚が釣れなくても商店で何か買えば良いと思っていたが、甘かった。ある日の朝ごはん、オカズが何もない。しかし海に入ったりして運動しているから、お腹(なか)だけはとても減っている。仕方ないのでお米だけ炊いた。おかずは味噌(みそ)。かなり質素なご飯であったがこれがとても美味しかった。特に米が美味(うま)い。東京で買ったコシヒカリで、いつも食べている米より安い。しかし、お米の味をはじめて知ったくらいに美味かった。
僕は炊き方に原因があったと思う。アウトドア用のアルミの鍋、小さなガスバーナーで炊いた。鍋の中で炊きたてのお米が立っていて、蓋(ふた)を取ると、米の粘りが白い膜となって薄い絹の布団をかけたようだった。
今あの時の味を思い出すと、多分、実際に食べたときより美味しく感じる。記憶が強化され、美化されて、実際よりも美味しく思い出すのだ。
本当にそんなに美味しかったのか、ただその時の雰囲気と、空腹と、物語がスパイスになって、米の味を引き立てているに過ぎないようにも思える。
例えば「どこどこ産の無農薬栽培の米です。それをあなたの好きな人が、手間隙(ひま)かけて丁寧に土鍋で炊きました」なんて言われたら、なんだか急に美味しく感じる。
自分の舌などあてにならない。絵画の鑑賞に似ている気がする。「なんだよこのわけの判らない絵は」と思っていても、それが有名な画家の描いた名画だったりすると、途端自分の感性を恥じたりするが、真に信頼すべきは自分の最初の感覚のはずであって、それが他人にとって美味いか不味(まず)いかなんていうのはどうでも良い事であるはずだ。
とはいえ、自分が美味いと思っていたものが他の大多数の人からしたらとるに足りないものだったときの悲しさには耐えられない。僕は小説や舞台を作るが、やっぱり自分だけ自作を面白いと思っていても、虚(むな)しいものだ。=朝日新聞2018年01月06日掲載
\n
編集部一押し!
- 著者に会いたい 佐滝剛弘さん「観光消滅 観光立国の実像と虚像」インタビュー データで解明する問題点 朝日新聞読書面
-
- 小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。 群像新人文学賞・豊永浩平さん 沖縄に生まれ、沖縄を知らなかった。ここから始めないと、この先書けない 「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」#20 清繭子
-
- 朝宮運河のホラーワールド渉猟 きさらぎ駅、くねくね……新しい時代の怖い話を追いかけて 廣田龍平さん「ネット怪談の民俗学」インタビュー 朝宮運河
- 中江有里の「開け!本の扉。ときどき野球も」 代打職人も俳優も待つのが仕事。「11人いる!」が教えてくれた使命 中江有里の「開け!野球の扉」#21 中江有里
- インタビュー 「ハリー・ポッターと賢者の石」日本語版出版から25 年 翻訳者・松岡佑子さんインタビュー 「ここまで惚れ込んだ作品、他にない」 坂田未希子
- インタビュー 三好愛さん初絵本「ゆめがきました」インタビュー「眠るのが苦手な子も、夢を楽しみながら眠って」 阿部花恵
- イベント 「今村翔吾×山崎怜奈の言って聞かせて」公開収録に、「ツミデミック」一穂ミチさんが登場! 現代小説×歴史小説 2人の直木賞作家が見たパンデミックとは PR by 光文社
- インタビュー 寺地はるなさん「雫」インタビュー 中学の同級生4人の30年間を書いて見つけた「大人って自由」 PR by NHK出版
- トピック 【直筆サイン入り】待望のシリーズ第2巻「誰が勇者を殺したか 預言の章」好書好日メルマガ読者5名様にプレゼント PR by KADOKAWA
- 結城真一郎さん「難問の多い料理店」インタビュー ゴーストレストランで探偵業、「ひょっとしたら本当にあるかも」 PR by 集英社
- インタビュー 読みきかせで注意すべき著作権のポイントは? 絵本作家の上野与志さんインタビュー PR by 文字・活字文化推進機構
- インタビュー 崖っぷちボクサーの「狂気の挑戦」を切り取った9カ月 「一八〇秒の熱量」山本草介さん×米澤重隆さん対談 PR by 双葉社