胃がんの手術から退院する前、主治医が私のベッドサイドで言った。
「おめでとうございます。どうやら、無事に退院していただけそうですよ。あなたの体には、実に粘り強いところがあります」
「粘り、強い?」
「だってね、三日に一度は吐血していたのでしょう。しかるに調べてみたら、貧血がない。造血能力が高いのでしょうね。手術の際、輸血しなかったですからね。悪いところはすべてとりましたから、これからは、のんびり、笑ってお過ごし下さい」
主治医はそう言って、しばらく考えて、つけ加えた。
「これを記念に、酒か、煙草(たばこ)か、女か、何か一つやめて下さい」
「酒! 酒をやめます」
私は即座に答えた。煙草をやめたら自分らしくなくなる。
「それからもう一つ。一年間は、過激な運動をしないで下さい。胃腸が短くなったのですから、腸捻転のおそれがありますから」
私は、秋に北海道で大きな競馬を控えていた。馬で五十キロを走破しようというのである。トレーニングを休むわけにはいかなかった。
私は、胃から腹にかけて、サラシをぐるぐる巻きにした。その姿で、退院一月(ひとつき)後から馬に乗った。
馬に乗れば、腹が空(す)く。
私は、食べた。
秋からは、上京する仕事が増えた。いきなり、食べ物に対する興味が激しくなった。有名なレストランなどに、しばしば出かけるようになった。
一人で行くのは、間がもたない。仕事で知り合った女性に、二人、三人と、声をかけた。食事に同席してもらうためだった。今なら、こういう関係を“食友”と言うそうだ。
昼には、そのホテルに入っている「久兵衛」に行った。
板前とも仲良くなり、いつもの席に座って食べた。
コハダ。大トロ。アナゴ。
久兵衛のアナゴは天下一品だった。
「うまいね、これ」
私の寿司(すし)ネタの能書きに、板前はついてこられなかった。私は東京湾から相模湾で、夜釣りで数千匹を釣り上げている。潜水して、砂にもぐっているアナゴの巣のことも知っていた。
久兵衛のアナゴ。
最後の晩餐(ばんさん)に何を食べるかという質問をよく受ける。私は決まっている。アナゴがなければ、初夏のコハダの新子。スミイカの新子。
贅沢(ぜいたく)の限りを尽くした。だが、私は一向に贅沢だとは思わなかった。新しい人生を得たのだ、これからだと勇み立った。私は、胃を失い、社会の仲間入りをしていた。=朝日新聞2017年07月22日掲載
編集部一押し!
- 子どもの本棚 上橋菜穂子さん「私は地図も描かない。見えているのは風景」 講演で創作手法を語る 朝日新聞文化部
-
- 朝宮運河のホラーワールド渉猟 令和の時代の〈村ホラー〉を楽しむ3冊 横溝正史的世界を鮮やかに転換 朝宮運河
-
- 滝沢カレンの物語の一歩先へ 滝沢カレンの「ゴドーを待ちながら」の一歩先へ ウラジとエス、カードゲームに熱中して沖合に流され… 滝沢カレン
- インタビュー 文芸評論家・三宅香帆さん×「フライヤー」代表・大賀康史さん対談 「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」から「働きながら本が読める社会」へ 加藤修
- 展覧会、もっと楽しむ 「かがくいひろしの世界展」開幕 4年で16作! 日本中の子どもたちに笑顔を届けた絵本作家の創作に迫る 加治佐志津
- ニュース まるみキッチンさんが「やる気1%ごはん」で史上初の快挙!「第11回 料理レシピ本大賞 in Japan」授賞式レポート 好書好日編集部
- トピック 【直筆サイン入り】待望のシリーズ第2巻「誰が勇者を殺したか 預言の章」好書好日メルマガ読者5名様にプレゼント PR by KADOKAWA
- 結城真一郎さん「難問の多い料理店」インタビュー ゴーストレストランで探偵業、「ひょっとしたら本当にあるかも」 PR by 集英社
- インタビュー 読みきかせで注意すべき著作権のポイントは? 絵本作家の上野与志さんインタビュー PR by 文字・活字文化推進機構
- インタビュー 崖っぷちボクサーの「狂気の挑戦」を切り取った9カ月 「一八〇秒の熱量」山本草介さん×米澤重隆さん対談 PR by 双葉社
- インタビュー 物語の主人公になりにくい仕事こそ描きたい 寺地はるなさん「こまどりたちが歌うなら」インタビュー PR by 集英社
- インタビュー 井上荒野さん「照子と瑠衣」インタビュー 世代を超えた痛快シスターフッドは、読む「生きる希望」 PR by 祥伝社