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夢の論理  小説家・磯﨑憲一郎

横尾忠則 暗夜光路N市-Ⅴ 2000年

不自然さも飲み込み、疾走

 小説を執筆するにあたって、遵守(じゅんしゅ)せねばならないルールは存在しない。冒頭から書き始めずに結末から遡(さかのぼ)って書いても構わないし、章毎(ごと)に別々に書いてから繫(つな)ぎ合わせても構わない。どんな書き方をしようが、それは書き手の勝手なのだが、しかしいかなる書き手も、そして読み手も従わねばならない制約が一つだけある。それは、小説は文章の連なりから成る、単線的(リニア)な構造を持たざるを得ないということだ。
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 小説は単線的に、必ず一文一文進む。ある文章が小説の中に置かれたならば、たとえその内容がどんなに不可解であったとしても、それが前提となって、受け容(い)れられた上で、次の文章が続く。だがこの構造は、我々がよく知る何かに酷似している。夢である。睡眠中に見る夢の中では誰しも、たとえそれがどんなに突拍子もない設定、現実には起こる筈(はず)のない事態であったとしても、それを真に受けて、必死に対処しようとしてしまう。悪夢にうなされるのは幼児だけではない。五十歳を過ぎた中年男が受験生に戻った夢を見れば、試験開始時間に遅れまいと全力で駅の階段を駆け上がる。何十年も前に死に別れた肉親が夢の中に現れても、それを奇異だと感じることなく会話を始める。そして、こんな筈はない、自分は夢を見ているのではないかと疑った瞬間にはいつも、目が覚めてしまう。
 夢こそが、小説の起源、小説の原型なのではないだろうか? ロマンチックな連想や比喩として言っているのではない。夢と、小説とは、それらが拠(よ)って立つ構造、論理を共有しているようにしか思えないのだ。
 小山田浩子の短篇(たんぺん)集『庭』(新潮社)に収められた「広い庭」では冒頭、母親の運転する車に乗せられ、母親の友人宅へと遊びに行く主人公が、「ミラーの中の母の目がいつもより大きく尖(とが)って見え」ることに気付く。同年代の子供が何人かいる筈だと聞いていた友人宅に到着すると、その夫婦以外には誰もおらず、母親もそのことに疑問を呈する訳でもない。なのになぜか、「この人数のために用意したとは思えない量」の料理が用意されている。広大な庭を探索し始めた主人公が一本の梅の木を見つけ、しげしげと観察した後、改めて同じ木を見上げると、「さっきと枝の形が全然違うように見え」る。読点の少ない、抑制の効いた文体で語られるこれらの描写には、夢の論理が働いている。不可解さが宙吊(ちゅうづ)りにされたまま終わる、この短篇集に収められた作品からは何(いず)れも、多くの読者からの共感を得ようなどというさもしい意図は感じられず、読後にはむしろ、置いてけぼりを食らったような印象が残る。だがそれは即(すなわ)ち、それほど速く、この作者の作品が疾走していることを示している。
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 夢の論理が働くのは、幻想的な小説に限ったことではない。高橋弘希「送り火」(文学界五月号)は、父親の転勤に伴い、東北の寒村へ移り住んだ中学三年生の主人公が、川沿いの銭湯で、地元のリーダー格の少年と出会う場面から始まる。田舎とはいえ現代に生きる思春期の少年たちが、携帯電話も持たず、性への関心も抱かぬまま、花札で遊び、角力(すもう)に興ずる、親子で仲良く羽根つきをするという不自然さを飲み込みながら小説が澱(よど)みなく進むのも、「茅葺(かやぶ)き屋根の民家」に住み、「右手に大根、左手に鎌」を持った、いかにも怪しげな老婆に招かれるがまま、あっさりと主人公が居間に上がり込んで、囲炉裏で炙(あぶ)ったマシュマロを食べ、甘酒まで呑(の)んでしまうのも、やはり夢の論理が作用しているが故の強引さとしか思えない。ほとんど予定調和のように見えてしまうラストの凄惨(せいさん)な暴力描写に比べると、「その茶色い生物は、白昼の陽光の中で、夜の鼾(いびき)をかくと、畦(あぜ)の緑を泥で汚しながら遠ざかっていった」という丁寧に観察され、選び抜いた言葉が使われた自然描写は、まるで夢の最中(さなか)に顕(あらわ)れる啓示の瞬間のようで、余りに魅力的だ。=朝日新聞2018年4月25日掲載