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文体とは何か  小説家・磯﨑憲一郎

横尾忠則 閉ざされた夜 2003年 作家蔵

一語ずつ積み上げ作る時空間

 一般の読者は常々疑問を感じているに違いない、作家や評論家がさも自明の事ででもあるかのように使っている、本欄だってこの三月までは何食わぬ顔をして見出しの一語として掲げていた小説の分類――純文学とエンタメ――この両者の違いはどこにあるのか? 髙村薫は「小説の現在地とこれから」
(新潮六月号)と題された大佛次郎賞受賞記念講演の中で、回答を試みようとしている。
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 講演では、昨今その境界が曖昧(あいまい)になっている純文学とエンターテインメントではあるが、もともと両者の違いに明確な定義があった訳ではないと前置いた上で、それでも両者を決定的に分かつのは「小説の書かれ方・読まれ方の差異」であり、「文体と文章空間に固執する者が純文学を書き、読む。これは昔もいまも変わりません」と、文体への志向性こそが、純文学を純文学たらしめている第一の理由なのだと強調する。
 しかし読者からすると、この文体なるものがまた作家たちの専売特許のようで、今一つ分かり難いのかもしれない。講演では文体とは何かについても、「うつくしい文章とか気の利いた表現といったことではなく、日本語の並べ方そのもの」であり、「漢字と平仮名を連ねてゆくなかで立ち上がってくる」「意味と音と形態の三つどもえの響き合い」に他ならないと説明される。こうした発言は全て、実作者としての経験、実感に根差しているのだろう。創作の渦中にある書き手が頭を悩ませているのは、読者の意表を突くストーリー展開でも、登場人物の人生観を端的に言い表す台詞(せりふ)でもなく、ただひたすらに、目の前の一文の、語の選択と配置という問題なのだ。そしてその選択の基準は、講演でも述べられている通り、正しく書き手の身体性に委ねられている。
 講演では後半、SNS全盛の現代、人々の身体性は希薄化し、文体への固執も消えつつあるという分析が成されているが、どういう訳か、そうした若い世代の中から、文体に意識的な作家も生まれ続けている。今年度の群像新人文学賞当選作、北条裕子「美しい顔」(群像六月号)は、震災で母親を失った女子高生の主人公が、被災者を消費するマスコミを敵視しながら、そのマスコミに自らも消費させ、避難所の非日常に引き籠(こ)もろうとしてしまう脆弱(ぜいじゃく)さと向き合い、弟と共に日常に帰還する迄(まで)を描いているのだが、投げ遣(や)りな描写や都合が良過ぎる人物造形といった欠点が散見されるにも拘(かか)わらず、この作品が特別なものに成り得ているのは、「……わからなかった」という語尾が執拗(しつよう)に繰り返されたり、「そっちじゃない、そっちじゃない、そっちじゃない」という同じ表現が反復される、書き手の苛立(いらだ)ちが見事に体現された文体に依(よ)る所が大きい。この文体は恐らく音楽、特にラップの影響を受けているのだろうが、作中の所々で、書き手の意図を超えて一つの言葉が次の言葉を生む、小説の自己生成が起こっているようにも感じる。
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 桜井晴也「くだけちるかもしれないと思った音」(三田文学春季号)の主人公は冒頭、突然やってきた憲兵に捕らえられ、牢獄に収監されてしまう。そこから、看守とのやりとり、農場での労働、従軍中の姉から届く長い手紙が、平仮名と読点を多用し、会話から鉤(かぎ)括弧(「」)を省いた、小説内の時間と同期しながらゆったりと進む文体によって綴(つづ)られてゆく。後半、イメージを先行させ過ぎて描写が疎(おろそ)かになってしまうのが惜しいが、「わたしをおおう夜も星の光に照らされていた」「わたしは、あるいはわたしをふくめたとてもおおくのひとびとが彼に感謝をするべきだと思った」という言語化する事のもどかしさを引き受けた表現などは、書き手が自らの身体性に忠実でなければ書けないと思う。そのように書かれた作品なのだから、これは現実世界のメタファーとして読まれるべきではない、一語一語積み上げて作られた、唯一無二の時間と空間なのだ。=朝日新聞2018年5月30日掲載