近所のスーパーでレジの順番を待っている時、ふと陳列棚に目が止まった。
「おッ!」
そこには缶詰めのみつ豆が置いてあった。二七八円。ビミョーな値段である。高いのか安いのか、よく分からない。何しろ缶詰めのみつ豆を買うのは、これが生まれて初めてである。初めてというのは、それがどんな行為であれ、ドキドキするものである。たかがみつ豆だが、私はやや積極的に胸をときめかせながら、その缶詰めをカゴの中に入れた。
何年か前、植草甚一のエッセイを読んでいたら、そこに「密(ひそ)かな愉(たの)しみ」として、みつ豆の食べ方が書いてあった。ただ漫然と食べるのではない。キンキンに冷やしておいて、ぬるめの湯に浸(つ)かりながら食べるのである。おお、これはうまそうだな。読んだ瞬間、私は感心した。以来、機会があれば試してみようと思いながらも幾星霜。ついにその日が訪れたのだ。これは運命だ! 私は大人げなくコーフンして、スーパーを後にした。
家に帰りつくと、すぐさまみつ豆を冷蔵庫に入れ、冷えるのを待つ。何だかもう気が急(せ)いて仕方がない。いや、いかんいかん。急いては事をしそんじる――五九年の生涯で、何度事を急いてはしそんじてきたことか。ここはひとつ、どっしりと構えて、今日じゃなくて明日食べるくらいの気持で事に当たらなければ。
さてその夜。冷蔵庫からみつ豆の缶詰めを取り出し、間違いなくキンキンに冷えていることを確かめてから、私は風呂を入れた。設定温度は四十度。
「温度よおし!」
と指差し確認である。缶詰めとスプーンを洗面器に入れて、まず風呂の蓋(ふた)の上に置いてみる。何やら現代アートのような光景である。
私は裸になって浴室に入り、慎重に蓋を半分だけ開けて、その隙間から体を滑り込ませた。あったかーい。目の前の洗面器の中で、冷えたみつ豆の缶詰めがこちらをじっと見つめてくる。裸の私自身も含めて、ますます現代アートのような光景である。
三十分近く温まったところで、私はおもむろに缶詰めの蓋をパッカーンと開けた。中には寒天、桃、みかん、赤えんどう豆などが、ぎっしり入っている。うわあ、何て美味(おい)しそうなんだ!
「ではでは」
私はまず寒天をすくって口に入れた。冷たくて、四角い食感。嚙(か)むと、ほろほろと崩れて喉(のど)の奥へ落ちてゆく。
「うまい」
私は一声上げた。桃やみかんや赤えんどう豆も、すこぶる美味しい。なるほど植草甚一が「密かな愉しみ」と呼んだのは、このことだったのか、と恐れ入った次第である。=朝日新聞2018年6月23日掲載
編集部一押し!
- ひもとく 昭和100年/戦後80年 自らを問い、歴史と対話を 保阪正康 保阪正康
-
- 朝宮運河のホラーワールド渉猟 空前のモキュメンタリーブームに沸いた一年 2024年ホラーワールド回顧 朝宮運河
-
- インタビュー ヨッピーさん「育児ハック」インタビュー 「子どもが社会的“野生味”を身につけてくれれば」 川崎絵美
- インタビュー 松下洸平さん「フキサチーフ」インタビュー 僕の言葉を探してつむぐ、率直な今の思い 根津香菜子
- 今、注目の絵本! 「絵本ナビプラチナブック」 絵本ナビ編集長おすすめの新刊絵本11冊は…? 「NEXTプラチナブック」(2024年11月選定) 磯崎園子
- 鴻巣友季子の文学潮流 鴻巣友季子の文学潮流(第21回) 英語圏で続く日本語文学ブーム、若い世代が支持 鴻巣友季子
- イベント 「今村翔吾×山崎怜奈の言って聞かせて」公開収録に、「ツミデミック」一穂ミチさんが登場! 現代小説×歴史小説 2人の直木賞作家が見たパンデミックとは PR by 光文社
- インタビュー 寺地はるなさん「雫」インタビュー 中学の同級生4人の30年間を書いて見つけた「大人って自由」 PR by NHK出版
- トピック 【直筆サイン入り】待望のシリーズ第2巻「誰が勇者を殺したか 預言の章」好書好日メルマガ読者5名様にプレゼント PR by KADOKAWA
- 結城真一郎さん「難問の多い料理店」インタビュー ゴーストレストランで探偵業、「ひょっとしたら本当にあるかも」 PR by 集英社
- インタビュー 読みきかせで注意すべき著作権のポイントは? 絵本作家の上野与志さんインタビュー PR by 文字・活字文化推進機構
- インタビュー 崖っぷちボクサーの「狂気の挑戦」を切り取った9カ月 「一八〇秒の熱量」山本草介さん×米澤重隆さん対談 PR by 双葉社