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顔は腸ぐらい他人 津村記久子

 先日、おなかが痛くなって久しぶりに途中下車をした。同行している編集者さんに断って、やっとトイレに駆け込んだものの、結局わたしの腹は何を訴えたかったのかよくわからなかった。けれども落ち着きはしたので、要するに「とにかくトイレという場所に行きたかった」のだと思う。「なんだかよくわからないです」と編集者さんに告げ、おなかのことは我ながらよくわからない、という話になった。「かなり勝手な奴ですよ」と編集者さんは言う。わたしも同意する。「うちのおなかがすみません」という感じだ。なんだかまるで同僚の失敗を詫(わ)びているようで他人みたいだ。
 書店さんへの挨拶(あいさつ)を終えた後、わたしたちは「もはや腸は別人である」という話で盛り上がった。人間とは実は、「私」と「腸(&膀胱〈ぼうこう〉)」のユニットでできあがっていて、基本的には「私」が「腸(&膀胱)」をいさめながら暮らしているが、ときどき彼らは自分勝手になり、彼らの望むままに途中下車したり出発を遅らせる破目(はめ)になったりする。
 それからわたしたちは、自分である、と大手を振って言える体のパーツはどこかと話し合って、結局、手足ぐらいしかない、という情けない結論に辿(たど)り着いた。あとは声帯ぐらいか。内臓はだいたい他人であるのは仕方ないとして、表皮の部分である顔も腸ぐらい他人ではないかとわたしは主張した。自分がどんな顔をあてがわれて生まれるのなんか、どんな腸を持って生まれるかぐらいわからない。化粧ぐらいはできるかもしれないが、それは腸のために納豆やヨーグルトを食べてやる種類のものだ。
 その後美容整形の話をした。その是非はおいておくとして、顔は腸ぐらい他人なので、その造作についてはまったくもってその人自身の責任ではないため、やっぱりどうのこうの言うのは無粋なのだと話した。だって「君の腸はひどいな」とか言うか? ただ、顔は他人でも表情は自分なのかもしれないと思う。そしてたいていの人は笑うとかわいい。=朝日新聞2018年6月25日掲載